令和2年6月4日(木)  目次へ  前回に戻る

山中でタコの画でも描いていたいものである。

まだ木曜日。まだ明日もある。

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とはいえ、わしはもう寒山に隠棲していますから、平日とか休日とか関係無いんでした。わははは。

一自遯寒山、 ひとたび寒山に遯(のが)れしより、

養命飡山果。 命を養いて山果を飡(くら)う。

 この寒山に逃げ込んで来ましてからは、

 山の木の果実を食って、心身ともに健康になっております。

シアワセだなあ。

平生何所憂、 平生、何の憂うるところぞ、

此世随縁過。 此の世、縁に随いて過ぎん。

 毎日何も心配なことはないのですか?

 この世のことはさだめに従って過ぎゆくばかり――何の心配もありません。

日月如逝川、 日月は逝く川の如く、

光陰石中火。 光陰は石中の火なり。

「逝く川」について。「論語」子罕篇に曰く、

子在川上、曰、逝者如斯夫、不舎昼夜。

子は川のほとりに在りて曰く、逝くものはかくのごときか、昼夜を舎(お)かず。

先生は川のほとりにおられたときにおっしゃった。「行くものはこの川のようなものじゃ。昼も夜もたゆむことがない」と。

これを@時間が過ぎていくことへの嘆きと取り、昼も夜も勉強せよ、という説教と取るか、A天地の力、それを体認する志ある者の営為は、川の流れのように昼も夜もとどまることがない、君らもこのように努力し続けよ、というやっぱりこれも説教ですが、と取るか、で旧注と新注の世界観が大きく違うところですが、いずれの説でも「川は流れゆきとどまることがないものである」ということには違いありません。

「石中の火」について。「五灯会元」にいう、

石中有火、不打不出。

石中火有り、打たざれば出でず。

(火打)石の中には火があるが、打たなければ出て来ない。

ひとも練らなければものにならぬ――という有名な禅語がありますが、ここでは、単にあっという間に消えゆくものの喩えでありましょう。

 月日は流れゆく川のようにとどまることなく、

 時間は火打ち石の中から現れた火花のようにあっという間に消えていく。

任侘天地移、 さもあらばあれ、天地の移ろうこと、

我暢巌中坐。 我は暢(ここちよ)く巌中に坐す。

「任侘」「任他」はそのまま「他(か)の・・・なるに任せん」と読んでしまった方が意味がとりやすい気もしますが、一応教科書では「さもあらばあれ」と読み下すことになっているのでそうしてみました。

 世界がとどまることなく変化していくのは、どうでもいいや。

 わしはこの岩窟にのんびりと座っておりますのじゃ。

わははは。

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「寒山集」より。自分はもう隠棲しているんだ、ということを時々思い出さないといけないのですが、平日はいつも忘れてしまって、今も何かに追い回されていると思い込んでしまっているんです。

 

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