朝咲いた花は夕べには散るさだめ。しばらくここでごろごろするでポックル。
疲れたなあ。だがまだ火曜日である。
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いいときはあっという間に過ぎますが、ツラい時は長いもの。
富貴如花、不朝夕而便謝。貧賤如草、歴冬夏而常青。
富貴は花の如く、朝夕ならずしてすなわち謝(ち)る。貧賤は草の如く、冬夏を歴(ふ)るも常に青なり。
富貴は花のようなもので、朝さいたら夕べまで持たずにもう萎み散ってしまうもの。貧賤は草のようなもので、冬を過ぎ夏を過ぎてもいつまでも青々と繁っているのじゃ。
然而霜雪交加、花草倶萎、春風驟至、花草敷栄。富貴貧賤、生滅興衰、天地之理也。
しかれども霜雪こもごも加われば、花草ともに萎み、春風驟く至れば、花草敷(なら)びに栄う。富貴貧賤、生滅興衰は天地の理なり。
けれど、霜や雪が繰り返し落ちてくれば、花も草も萎んでしまうし、春の風が吹き始めれば、花も草もどちらも盛んになりだす。富貴・貧賤というのは、生まれ滅び、興り衰えることとともに、この世のさだめなのじゃ。
また、
大処判、小処算、此富人之通病也。小事諳、大事玩、此貴人之通病也。而皆不得其中道、所以富貴之不久長耳。
大処に判じ、小処に算(かぞ)うるは、これ富人の通病なり。小事は諳んじ、大事は玩ぶは、これ貴人の通病なり。而してみなその中道を得ず、富貴の久長ならざる所以なるのみ。
大きなことは大まかに判断するが、小さなことは計算高い。これが金持ちがみんな持っている欠点じゃ。小さなことはなんでもなくやり、大きなことはひねくり回してしまう。これが身分の高いひとがみんな持っている欠点じゃ。ところが困ったことに、どちらもその中間というものがないので、お金持ちも身分の高いひとも、いついつまでも、とはいかないのである。
余嘗論好花如富貴、秖可看三日、富貴如好花、亦不過三十年。能於三十年後再発一株、遞謝遞開、方称長久。
余の嘗て論ずるに、好花は富貴の如く、ただ三日を看るべく、富貴は好花の如く、また三十年を過ぎず。よく三十年後に一株を再発し、遞(たが)いに謝(ち)り遞いに開かば、まさに長久と称されん。
わしは以前、こんなことを考えた。
―――よき花は富貴のようなものである。(長く続かず、)やっと三日の間見続けていることができる程度じゃ。富貴はよき花のようなものである。(長く続かず)やっと三十年が限界であろう。もしも三十年後に次の世代の株が開いて、散ったあとからまた咲いてくるなら、それが富貴を「長く久しく」占めるということなのであろう。
同じ家系に富貴が続いているように見えるのは、本来的には落ちぶれているのに、偶然に新しい富貴のサイクルが始まっているからに過ぎないんじゃ。
然而世豈有不謝之花、不敗之富貴哉。
然れども世にあに謝らざるの花、敗れざるの富貴有らんや。
しかし結局のところ、おまえさんは、この世に散らない花や、落ちぶれない富貴の家がある、と思うかな?
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「履園叢話」七「臆説」より。富貴は三十年続かない、のは納得でき、しかもにやにやしてしまうぐらいなのですが、貧賤は長く続く、のはツラいなあ。