わたくしども鳥類の社会的距離(ソーシャルディスタンス)すなわち縄張り争いはキビシイものがあるのでホッホー。
いつ感染症になって肝冷斎打ち切りになってもおかしくない状態です。都会で暮らすリスクとコストを考えないといけません。
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晋の時代、王E(おう・びん)は名宰相であった王導の孫である。彼が叔父・王薈(おう・かい)の邸に来たところ、先客がいるので、誰かと問うと車騎将軍・会稽内史の謝玄であった。謝玄は現宰相の謝安の甥で、この数年前の太元八年(383)に、名だたる北府軍の荒くれどもを率いて前秦の大軍を淝水のほとりで打ち破り、国難を切り抜けた名将である。王薈と同じ年ごろ、王Eからみれば二十歳近くも年上だった。
三人で一献酌みかわそうとなって、そのうちいいキモチになってきた。
僧弥挙酒勧謝云、奉使君一觴。
僧弥(そうび)、酒を挙げて謝に勧めて云う、「使君に一觴を奉らん」と。
「僧弥」(そうび)は王Eの幼字、すなわち子どものときの呼び名。
王僧弥は、さかずきを挙げて、謝玄に酒を勧めて言った。
「太守どののために一杯差し上げましょう」
謝玄は会稽内史なんで、ホントは「使君(太守)さま」と呼ばれるわけがないんですが、まあ貴族のやっていることですから気にしないでください。
謝玄は、
可爾。
可なるのみ。
「わかった、わかった」
と答えた。
すると、
僧弥勃然起作色、曰、汝故是呉興溪中釣碣耳、何敢譸張。
僧弥、勃然として起ちて色を作して曰く、「汝もとこれ呉興溪中の釣碣(ちょうけつ)のみ、何ぞ敢て譸張(ちゅうちょう)す」と。
「譸張」(ちゅうちょう)とは実は古いコトバで、「尚書」(書経)無逸篇に、周公が甥の成王に説教して
古之人猶胥訓告、胥保恵、胥教誨。民無或胥譸張為幻。
いにしえの人、なお胥(あ)い訓告し、胥い保恵し、胥い教誨す。民、胥い譸張して幻を為す或(あ)ること無し。
昔の(王やその配下の)人たちは、(みな賢者であったのに、)さらになお、互いに訓告しあい、たすけあい、教え諭しあっていたのです。それゆえ、民衆もお互いにたぶらかしあって、ウソをつくようなことは無かったのですぞ!」
というのに出てきます。「たぶらかす」「ホラをふく」「からかう」といった意味です。
王僧弥は、突然立ち上がり、怒ったように言った。
「あなただってもともとは浙江呉興の谷川に石のように突っ立っていた釣り人ではありませんか。どうしてわざわざそんなふうにからかうんですか!」
「釣碣」(ちょうけつ)は文字通りには「釣りをする碑石」。釣り人が石のようにじっとしているのを「碣」(まるい碑石)に喩えたのです。
これを聞き、
謝徐撫掌而笑曰、衛軍、僧弥殊不粛省、乃侵陵上国也。
謝、おもむろに掌を撫して、笑いて曰く、「衛軍、僧弥はことに粛省せず、すなわち上国を侵陵す」と。
「衛軍」は「衛将軍」の意で、王薈への呼びかけです。が、王薈はホントは死後「衛将軍」を追贈されているので、このときは謝玄とともに会稽内史(首都の局長)だったはずですから、ホントは「衛軍」とは呼びかけておらず、幼字の「小奴」という名前ぐらいで呼びかけたと思います。まあ貴族のやってることなんで、細かいところは気にしないでください。
謝玄は、ゆっくりと手を打つと、大笑いして、
「王薈よ、僧弥めはほんとに慎みの無いヤツだな。(田舎者のくせに)都会の人間をバカにしおるわい」
と言った。
浙江・呉興は現在(当時の)の都会です。王氏一族はもと山東出身の超絶名家なので、これを「田舎者」として、呉興のような都会をバカにしおって、と言ったので、田舎者とさげすんでいるのは表面上のこと、「おまえが超絶名家の王氏の若手だということ、ようくわかっておるよ」と相手を承認した発言になっているんです。
王薈は甥の向こう意気の強いのにも驚いたが、謝玄の度量の広いのにも舌を巻いたのだった。
後、王Eは若くして政府の要である尚書令を務めて将来を嘱望されたが、惜しい事に三十にもならずして死んでしまった。
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「世説新語」雅量第六より。王Eさまの酒癖の悪そうなのは置いておきまして、「呉興の釣碣」はあまりにもカッコいいので、「郷里に帰って隠棲しますわー」と言いたいときに「呉興の釣碣になりますわー」と使われます。おいらもこのコロナ都市封鎖が解除されたら、郷里に帰って石のようにぼけーと釣り糸を垂れようと思うのだ。