ありがたいでピヨ。
岡本全勝さんから肝冷斎の読書(というか買書)行動についてご心配いただきました(背徳の楽しみ)が、肝冷斎は山中に隠棲していて「書評」というものを読まないので、新刊書を買わなくて済むので貧乏でもやっていけております。
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今日は「お花祭り」(甘茶会)です。
―――こんなふうにわたしは聞いております。
あるとき、ホトケさまが王舎城の耆闍崛(ぎじゃぐつ)の山の中で、多くのボサツさまや弟子方や坊主・尼、一般人、神々や精霊・妖怪どもを前にして、こんなことをおっしゃった。・・・
人生在世、父母為親、非父不生、非母不育。
人の生じて世に在るは、父母親と為し、父にあらざれば生ぜず、母にあらざれば育せざるなり。
ひとが生まれてこの世に存在できるのは、おやじとおふくろが親となってくれたからじゃ。おやじがいなければそもそも種が受精卵にならないし、おふくろがいなければ生命体として育つことは無かったわけじゃて。
是以寄託母、胎懐身十月、歳満月充、母子倶顕、生堕草上。
是を以て母に寄託し、懐に身を胎すること十月、歳満ち月充ちて母子倶(とも)に顕(けん)にして生まれて草上に堕つ。
おふくろに託されて、その腹の中に体を身ごもってもらって十か月、必要な歳月が満ちて、かつおふくろも子どもも元気(健)であったら、草の上に生れ落ちる。
それから、
父母養育、臥則蘭車、父母懐抱、和和弄声、含笑未語。
父母養育して、臥してはすなわち蘭車、父母懐抱すれば、和和と弄声し、笑を含むもいまだ語らず。
「蘭車」は「ゆりかご」のことであろうとされています。
おやじとおふくろに養い育ててもらうのだが、寝ているときにはゆりかごに入り、おやじとおふくろが懐に入れて抱っこしてくれると、「あわあわ」と泣き声をあげ、にやにや笑うがまだコトバはしゃべれなかったなあ。
飢時須食、非母不哺、渇時須飲、非母不乳。
飢うる時に食を須(もと)むるに、母にあらざれば哺(くら)わず、渇く時飲を須むるに、母にあらざれば乳のまず。
腹が減ったときに(まだコトバはしゃべれないんですが態度で)「食べ物を寄越せ」と求めても、おふくろからでなければ食わないし、のどが渇いて「飲み物を寄越せでちゅー」と求めてもおふくろからでなければお乳も飲まなかった。
母中飢時、呑苦吐甘、推乾就湿。(非義不親、非母不養。)
母は飢に中るの時も、苦きを呑みて甘きを吐き、乾けるを推(すす)めて湿るるに就く。(義にあらざれば親ならず、母にあらざれば養わず。)
おふくろは、自分が腹が減っているときでも、不味いものは自分で食い、美味いものは口から吐き出して食わせてくれた。寝るときは、乾いたところにわしを寝かせて、湿ったところに自分は寝た。(正しいキモチがなければ親なんてやっておられず、母親でなければ養わないだろう。)
( )内はなんだか前後に意味が通じないので、おそらく古い解説かなんかが紛れ込んだものだろうと思われます。
慈母養児、去離蘭車、十指甲中、食子不浄、応各有八石四斗。
慈母児を養いて蘭車を去り離るるには、十指の甲中に子の不浄を食らうこと、応(すべ)ておのおの八石四斗有り。
唐代の一斗≒6リットルで、一石=十斗ですから、えーと・・・
やさしいおふくろが子どもを養いゆりかごを離れられるようになるころまでには、十本の指の爪の中に入り込んだ子どもの「うんこしょんべん」を食べてしまうこともあり、その量は子ども一人当たり、52リットルにもなるという。
ほんとかね。
計論母恩、昊天罔極。嗚呼慈母、云何可報。
母恩を計論すれば、昊天のごとく極まり罔(な)し。嗚呼、慈母、云何(いかん)が報ゆべき。
おふくろの恩を計り論ずれば、それは青空のように果ても無いほどだ。ああ、やさしいおふくろよ、どうすればあなたに恩をお返しすることができるのだろうか。
―――阿難(アーナンダ)が質問した。
云何可報其恩、唯願説之。
云何ぞその恩を報ゆべきや、唯これを説かんことを願う。
「どうやって恩を返すことができるのか、どうぞご教示ください」
「そうじゃなあ・・・」
といろいろほとけさんがその方法をおっしゃって、みんな感激して涙を流しながら、みほとけの足に触れたのだそうです。
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訳者不詳「仏説父母恩重経」より。母親に報いる方法を知りたいひとは、原文をお読みください。(ただし、喜んでもらえるパンケーキの作り方、とか、カーネーションはここがお得、とか下らんことは書いてなくて、お経を写したり坊主に施しをしたり、というような大事なことが書いてありますので、みなさんはがっかりされるかも知れませんがネ。)
今日は仏さまの誕生日(とされる日)です。仏さまに父母への御恩を語っていただきました。
しかし、明らかに本来の仏法の思想にありえない祖先崇拝、儒教的な父母への敬愛を説き、しかもおやじのことはほとんど言わずに万民受けするおふくろのことばかり。
おかしい。そうなんです。この経典は「おやじもおふくろも死んだら焼いちゃえ」という思想のインドには原文が存在せず、チャイナで漢訳だけ作っちゃったいわゆる「偽経」です(6世紀、唐の初めごろの撰とされています)。フェイクを作って、東アジアのやつらに受けを狙ったものなので、わたしどもにも胸にじんと来てしまうんです。
さて、コロナ緊急事態中です。来年のお花祭りはどんな状況で迎えるのか、それとももう迎えられないのか。