令和2年4月7日(火)  目次へ  前回に戻る

緊急事態となり、マスクをつけてみたら、「ぶたとの」から、ただの「でぶとの」に格下げである。

七都府県に緊急事態宣言が出ました。これからは自粛の生活です。ちなみに今日はスーパームーン。

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明の時代のことですが、

近日一番僧自西域来。

近日、一番僧、西域より来たる。

最近、異民族の僧が西方からやってきた。

貌若四十余、通中国語、自言六十歳矣。

貌は四十余のごとく、中国の語に通じ、自らは六十歳なりと言えり。

その容貌は四十歳ちょっとぐらいかと見えるのだが、チャイナのコトバを使いこなし、自分では「六十歳です」と言っていた。

このひとは、なんと、

不御飲食、日啗棗果数枚而已。

飲食を御せず、日に棗果数枚を啗(くら)うのみ。

飲み食いをほとんどせず、一日にナツメの実を数個食べるだけであった。

そして、

所坐一龕、僅容其身、如欲入定、則命人鏁其龕門、加紙密糊封之。

坐するところの一龕、わずかにその身を容るるのみにして、もし入定を欲すれば、すなわち人に命じてその龕門を鏁(とざ)す。

いつも座っている厨子があるのだが、それはわずかに彼の体が入って座っていられるぐらいの広さしかなく、そこで座禅を組もうとすると、人に命じて厨子の扉を閉めさせて外からカギをかけさせるのである。

そんなことしたら、狭い厨子の中でぶうすかと眠っているだけで、そのうち飽きたら「ここから出せ」と騒ぐだけなのではないか、とわれわれは思うのですが、

或経月余、謦咳之声亦絶、人以為化去矣、潜聴之、但聞掐念珠歴歴。

或いは月余して、謦咳の声もまた絶し、人以て化去せるならんとし、ひそかにこれを聴くに、ただ念珠を掐(こう)すること歴歴たるを聞くのみ。

時に一か月以上もの間そのままで、せきばらいの音さえ聞こえないので、

「これはもうお亡くなりになっているのでは・・・」

と心配したひとが耳を押し付けて中の様子を伺うに、ただ数珠を探る音だけがはっきりと聞こえるのであった。

そこから出てきたあと、あるひとがどうしてそんなことができるのか問うたところ、

僧は、

少思、少睡、少食耳。

思うこと少なく、睡ること少なく、食らうこと少なくするのみ。

「ほとんど何も考えず、ほとんど眠らず、ほとんど何も食べない。普段からそうしていれば、なんとかなりますよ」

そして、それを

勧人。

人に勧む。

「あなたもそうされるといい」と勧めるのであった。

「そんな御立派な方なら、へへ、お布施もたんまりおもらいになったんでげしょうね、へへへ」

と思うのですが、

一切布施皆不受、曰、吾無用也。

一切布施みな受けず、曰く「吾、用無し」と。

あらゆるお布施はまったく受け取らず、いつも「わたしには使う必要がありませんからね」と言うのであった。

この僧は、しばらくの間、南京雨花台のウイグル寺院(モスク)にいたということであるが、その後の行方は杳として知れない。

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明・顧起元「客座贅語」巻六より。これぐらい他者との関係を途絶していられるなら、感染減ります。5月6日までの一か月、何も考えず、眠らず、食わず・・・はできませんが、生活必需品は買いに行ってもいいんで、何とかなるカモ。

顧起元は字・太初、遯園居士と号す、江蘇・江寧(南京市内)のひと、嘉靖四十四年(1565)生、萬暦二十六年(1598)に一甲三名(全国第三位)の成績で科挙に合格し、国子監祭酒、翰林院侍読、吏部左侍郎などピカピカの官職を経て、大いに用いられようとしたところで、南京に帰って、以後、遯園にて著述に従事し、崇禎元年(1628)卒す。「客座贅語」は彼が見聞したり、書物で読んだ郷里南京の明初以来の事件や有名人のエピソードなどを収集したものです。

 

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