「すごいでぶー」・・・と本気にしてしまうひとがいると困ります。
やっぱりチャイナはすごいなあ、というハナシです。
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西僧利瑪竇嘗謂余。
西僧・利瑪竇(りばとう)、嘗て余に謂えり。
西洋坊主のマテオ=リッチが、以前わしに話しかけてきたことがあった。
「アナタ、ご存知デスか?」
「なにを?」
天上有一世界、地之下亦有一世界。皆如此世界。
天上一世界有り、地の下にまた一世界有り。みなこの世界の如し。
「天上にも世界がアリマス。神さま、そこにイマス。地下にも世界がアリマス。サタンそこにイマスネ」
「はあ?」
マテオはあちこちでこれを言っていたらしく、このことを聞いたのはわし一人ではない。そして、
聞者多以為幻妄。
聞く者、多く以て幻妄と為す。
聞いた者は、たいていは「このひとはマボロシを見たのだなあ」と思ったようだ。
だが、しかし。
わしのような読書人の目から見れば、そうとも言い切れないのである。
余閲酉陽雑俎、有人掘地、深已倍於常井数丈、不見水。
余、「酉陽雑俎」を閲するに、人の地を掘りて、深さすでに常井より倍すること数丈なるに、水を見ざること有り。
唐の段成式の名著「酉陽雑俎」を読んでいたところ、こんな話が書いてあった。
―――あるひとが井戸を開くため地面を掘って、ふつうの井戸の深さよりもさらに何メートルか深く掘り進んだのだが、水が出て来ないことがあった。
「ここは外れかな・・・」
と思っていたとき、
忽聞向下有車馬人物喧鬧之声。近如隔壁。
忽ち下に向かいて、車馬人物の喧鬧の声有るを聞く。近きこと壁を隔つる如し。
突然、下から、車のきしる音、馬のひづめの音、ひとびとが騒ぎ罵しる声が聞こえてきた。まるで壁一つ隔てただけのように近いところからである。
「なんだ、これは」
出以告州将。将遣人験之不誣、欲奏其事、恐渉於怪而止、遽令塞之。
出でて以て州将に告ぐ。将、人を遣りてこれを験せしむるに誣ならず、その事を奏せんと欲するも、怪に渉らんことを恐れて止め、にわかにこれを塞がしむ、と。
穴が出てきて、そのことを地方守備隊長に報告した。隊長は隊員に確認を命じたところ、うそではない、というので、中央政府に上奏しようとした・・・のであるが、「オカルトに入れ込みすぎではないか」と譴責されることを恐れて止め、すぐに穴を埋めさせてしまった・・・。
という事件があったそうなのである。
是瑪竇之言、亦似有拠也。
これ、瑪竇の言、また拠る有るに似たり。
このことを考え合わせると、マテオの言っていることも、何か根拠のあることのようにも思えるのである。
地下に世界があるというのは、チャイナでも昔から知られていたことであり、西洋坊主が発見したことではないようだ。
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明・張萱「疑耀」巻四より。やはり、すべての知恵はチャイナにあるのだなあ。そして、西洋坊主の言だからといって退けずに、それを受け容れる度量の広さ。敬服するばかりである・・・あ、もうエイプリル・フール過ぎたんでしたっけ。
「疑耀」という書物は、なんと、乾隆帝や紀暁嵐がマジメな顔をして編纂した「四庫全書」に入っている書なのですが、中身は明代までのいろんな雑学的知識とか非常識なトンデモ系の学説などをたくさん載せている一種の奇書です。
例えば、水・金・火・木・土の五つの惑星が一か所に集まる「五星聚」という珍しい天文現象があり、周の文王、斉の桓公、漢の高祖の時代に出現して、天下が安定する吉兆だ、ということにされていたのですが、実は、
安禄山反、天宝九年五星聚尾箕。
安禄山反するに、天宝九年、五星、尾箕に聚まれり。
安禄山の乱が起こる直前の天宝九年(750)にも、五つの惑星が尾宿・箕宿(←いずれも二十八星宿の一で隣り合っている)に集まったことがある。
うーん。
何徳以致之耶。
何の徳を以てこれを致せしや。
安禄山はどういう徳を持っていたので、このような天兆を得たのであろうか。
という事実を大発見してしまっています(巻三)。
安禄山がそのまま唐を倒して安定的な王朝を築いていれば、大吉兆として後世に伝えられたはず、だったのかも知れません。
この書は、かつては明の奇人思想家・李贄の作とされていました(「四庫全書総目提要」など)が、今では張萱という人の著だと確認されています(張萱自身が本屋で、自分の著述が「李贄著」と書かれて売り出されているのを見てびっくりした旨を書き残している)。張萱は明の嘉靖三十二年(1553)、広東・博羅の生まれ、字を孟奇といい、九嶽先生とか西園先生と号す。萬暦十年(1582)、科挙に合格して、中書舎人、戸部主事を経て萬暦三十六年(1598)戸部郎中(課長クラス?)に任ぜられるも、職に就かず、帰郷して著述に専念し、崇禎九年(1636)に卒す、という。