エイプリル・フールだ、うれしいなー。
ウソばかりついて生きていきたいものだなあ。
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この時期は毎年、花冷えの季節です。二月の立春節から五月の立夏節の間が春ですから、もう春も半ばを過ぎてしまった。
春半年已除。 春の半ばとなれば年はすでに除す。
其余強為有。 その余は強いて有りと為すのみ。
春も半ばまでくれば、もう今年一年(のいいとき)は終わったようなものだ。
これからあとは、むりやりある、というぐらいの季節でしかない。
気が早い気もしますね。
まあいいや。
即此酔残花、 即ちここに残花に酔い、
便同嘗臘酒。 すなわち同じく臘酒を嘗めん。
「残花」は「残った花」ではなく、この「残」は「衰残」や「残酷」の「残」で、「衰えた、惨たらしい、レ・ミゼラブル」の意味。「衰えた花」です。「臘」(ろう)は十二月のことで、「臘酒」は年末に醸した酒。
そこで、ここに衰え行く花に酔い、
そして、みんなで暮れ仕込みの酒を飲もう。
悵望送春盃、 悵望(ちょうぼう)たり、春を送るの盃、
慇懃掃花箒。 慇懃たり、花を掃うの箒(ははき)。
「悵」は「うらむ」、「望」もここでは「怨望」の「望」で「うらむ」。「慇懃」は今では無礼しかしませんが、本来は「ていねいに誼を通じ合う」という意味です。
春を送る酒杯は、うらみかなしみとともに―――
花を掃う箒は、とても親愛な者のようだ―――。
「怨み上戸」に「みんな友だち上戸」のようです。
誰為駐東流、 誰かために東流を駐(とど)めて、
年年長在手。 年年、長く手に在らしめんや。
誰か、わたしのために東に流れる水をとどめて、
毎年毎年、長くこの手に在らしめてはくれないものか。
この二句はとても味わいがありますね。
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唐・杜牧「惜春」。五言詩らしい余韻の残るいい詩である。しかし今年の春はこんな感懐さえも持てない。
ふるさとは花こそいとどしのばるれ散りぬるのちはとふ人もなし 藤原基俊(千載・春下)
(誰かにゆかりのこの土地では、花ばかりが思い出されているのだろう。花が散ってしまったあとはだれもやってこないのだから。わたしのことなど誰も覚えていないのだ・・・。)