怒りの火炎玉を打ち出す火の精サラマンドラだ。飛沫ではありません。
今は健康だと思っているんですが、先のことはなかなかわかりません。
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春秋時代のことです。斉の桓公が北の方、孤竹(こちく)族を征伐しようとして、卑耳の渓というところの手前十里(当時は4キロぐらい)まで来たとき、突然、御者に馬車を停めるように命じた。
「はいどうどう」
と馬車が停まると、桓公はやおら車上で立ち上がり、
援弓将射、引而未敢発也。
弓を援(ひ)きてまさに射んとし、引きていまだあえて発せず。
弓を引き絞って矢を発射せんとする体勢になったが、引き絞ったままで、あえて発射しようとはしなかった。
しばらくして弓を戻すと、
謂左右曰、見是前人乎。
左右に謂いて曰く、「この前人を見しや」と。
左右の者を振り向いて、言った。「いま、前にいたやつを見たか?」
左右対曰、不見也。
左右対して曰く、「見ざるなり」と。
左右の者は答えた、「いや、ぜーんぜん」
「むむむ・・・、見えなかったのか」
桓公が言うには、
今者寡人見人長尺而人物具焉。冠、右袪衣、走馬前疾。
今、寡人、人の長(たけ)尺にして人物具われるを見る。冠し、右に衣を袪(はさ)みて、馬前を走ること、疾(と)し。
「いま、わしは、身の丈一尺(この当時は22センチぐらい)の人間、ひとの形も身に着ける物も具わっているのを見たんじゃ。そいつはちゃんと冠をかぶり、衣を右挿(はさ)みにして、馬の前をすごいスピードで走り抜けて行ったんじゃ」
しかもその小さいのは、すごいスピードで走り抜けながら桓公の方を見て、「にやり」と笑ったのだという。
事其不済乎。寡人大惑。豈有人若此者乎。
事それ済せざるか。寡人大いに惑えり。あに人のかくのごとき者有らんや。
「(これは不吉な徴で、)今回の計画はうまくいかないのではないだろうか。わしはすごく悩ましくなってきたぞ。あんな小さい人間がいるはずないではないか」
後ろの馬車に乗っていた宰相の管仲が追いついてきました。
「どうされましたかな?」
と問うので、公がかくかくであったと説明したところ、管仲は
「むふふふ」
と笑って、言った。
臣聞、登山之神有兪児者、長尺而人物具焉。覇王之君興而登山神見。
臣聞く、登山(とうざん)の神に兪児(ゆじ)なるもの有り、長(たけ)尺にして人物具われり、と。覇王の君興りて登山神見(あら)われしならん。
「わたしが聞いているところでは、登山(とうざん)の神に「兪児」(愉快な童子)というやつがいるらしいのでございます。そいつは身の丈一尺で、ひとの形も身に着ける物も具わっているそうです。覇者として天下を実質的に差配する君主が現れると、この登山の神が出現する、という言い伝えがございます。
その神が、
走馬前疾、道也。
馬前を走ること疾(と)きは、道びくなり。
馬の前をすごいスピードで通り過ぎ(にやりと笑っ)たというのですから、(不吉な徴ではなく)「おまえを導いてやろう」ということでございましょう。
袪衣示前有水也。
衣を袪(はさ)むは前に水有るを示すなり。
衣の合わせ目を挿(はさ)みこんでいるのは、前に河水があって渡れない、ということを教えようとされていたのでしょう。
右袪衣、示従右方渉也。
右に衣を袪にするは、右方より渉るを示すならん。
はさみこみ場所を右側にしているのは、川を渡るときに右方よりしろ、ということを言っているのではないでしょうか」
管仲が自信たっぷりにそういうので、
「そ、そうか(ホントかなあ・・・)」
と思いながら、卑耳の渓まで来ますと、果たして前方に川があった。早速、川に詳しい者を探して渡し場を問うと、
賛水者曰、従左方渉、其深及冠、従右方渉、其深至膝。若右渉、其大済。
水を賛(たす)くる者曰く、左方より渉れば、その深きこと冠に及び、右方より渉れば、その深きこと膝に至る。もし右に渉れば、それ大いに済まん。
水上で助けてくれそうなやつがいて、言うに、「左の方から渡ったら、冠を没するほどの深さがあり、右の方から渡ったらその深さは膝を濡らす程度です。もし右の方から渡ったら、御計画は大いに成し遂げられることになりましょう」と。
「なんと」
ここにおいて、
桓公立拝管仲於馬前。
桓公、立ちて管仲を馬前に拝す。
桓公は立ち上がり、管仲に馬の前のところで拝礼した。
そして言った、
仲父之聖、至若此。寡人之抵罪也久矣。
仲父の聖なる、かくのごときに至りしか。寡人の罪に抵(あ)たる罪や久しきかな。
「仲父さま(管仲への尊敬した呼びかけ)は、本当に聖人さまでいらっしゃる。こんなレベルに賢くおありでしたのに、それに相応なほどには研究予算も尊敬も払ってこなかった罪を、わしは長いこと重ねてきたのじゃなあ」
管仲は答えて言った。
聖人先知無形。今已有形、而後知之、臣非聖也、善承教也。
聖人先ず無形に知る。いま已に有形にして後これを知る、臣は聖にあらざるなり、善く教えを承くるなり。
「聖人というのは、いまだ形にならないようなことを、その段階から予測する人のことです(強いていえば、殿のように幻覚をご覧になった方こそ聖人でございましょう)。いま、わたしは殿がご覧になった「身の丈一尺のひと」というモノが現れてから予測したのですから、わたしは聖人ではありません。よく学問の伝統を継いでいるだけでございます」
と。
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「管子」小問第五十一より。みなさんがこれぐらい先の事が分かっていると新型コロナの流行などもわかっていたわけですが、数か月前には分からなかったとは怪しからん。みなさんは聖人では無いのではないか。