暖かくなってきたから、おれもそろそろエジプトに燃え尽きに行ってくるかなあ・・・。
季節は春らしくなってきて、肝冷斎はまた出奔してしまいました。たいていの肝冷斎族は、春になるといなくなってしまうんです。
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宋の初めころのある日、僧侶たちが集まっているところに、「どんどーん」と太鼓が鳴って、洞山守初禅師が出てきまして、説法された。
法鼓纔動、大地全収。
法鼓纔かに動かば、大地全収せらる。
―――寺の太鼓が少しでも鳴れば、そこに地上の全存在は吸い込まれてしまうのだ。
「はあ?」
諸徳在鼓声裏来往、還知也無。
諸徳、鼓声の裏に在りて来往す、また知るや無きや。
―――おえらいボサツや禅師がたは、太鼓が鳴っている音に乗って、来たり行ったりしておられるのだが、おまえたち、それを知っているか。
「はあ?」
対衆道看。若道不得、被洞山熱瞞。
衆に対して看しを道(い)え。もし道い得ずんば、洞山が熱瞞を被らん。
―――誰か、みんなに自分の知っていることを言ってみてやれ。もし言えないのなら、この洞山の熱でたぶらかしてやるわ!
「はあ?」
以上を言い終わると、禅師は
下座。
下座す。
引き上げて行かれた。
答えを聞く前に引き上げて行ってくれて、よかったですね。
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宋・賾蔵主(さくぞうす)編「古尊宿語録」巻三十八より。世の中、激動しているんです。法鼓(=世界の動き)はいつも鳴り響いているんだ、已むときはない、その中で主体的に振る舞えるようがんばってね、というのが禅師の言いたいことだと思うんですが、如何か。
洞山守初禅師(910〜990)には、「十心頌」という有名な「唱えごと」があります。その第一番に曰く、
心是春。 心はこれ春なり。
普雨山河及大地。 普(あま)ねく山河及び大地に雨ふる。
渋酸鹹淡甘与苦、 渋・酸・鹹・淡、甘と苦、
尽受春功滋助力。 ことごとく春功の滋助力を受く。
「心」というのはすなわち「春」である。
山にも川にも大地にも、春はあまねく雨を降らせる。
渋い、酸っぱい、しおからい、味がうすい、甘い、そして苦い、
これらもすべて春のはたらきが、じんわりと味つけていった結果である。
こんなのが十番まであるんです。春の間に降った雨で、あとの季節の味が違ってくるみたいですよ。この春は「心」のことなんで、「季節」というのももちろん譬喩である。何の譬喩かは、みなさん考えてみてください。
禅宗のお寺にあるこういう板をブラ下がっている木づちで不用意に叩いたりすると、「めしか」「めしの時間か」「腹減ったでちゅう」「うっしっし」とばかりに、わらわらと大量の雲水たち湧いて出てくることがあるから注意しよう。(深谷・国済寺にて)