「仕事はイヤというより苦手なのでぶー。たとえ「おまえの好きなことをしててもいいぞ」と言われてもしない方へしない方へと向かってしまうのでぶー」
特に強制労働はいやである。
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肝冷斎は明の萬暦年間(1573〜1620)の末ごろには、
已以詩歌名江表。
已に詩歌を以て江表に名あり。
早くも、詩や詞の作者として長江下流域南岸地方(要するに蘇州や浙江あたり)に名高かった。
康熙年間(1662〜1722)の初めごろには
年八十余矣。家貧、苦徭役。
年八十余なり。家貧にして徭役に苦しむ。
八十何歳になっていたが、まだ生きていました。たいへん貧乏で、お役所から命じられる強制労働に苦しんでいた。
税金が払えないので、労働で支払わせるしかなかったのだ。
さてさて、阮亭先生・漁洋山人・王士f(1634〜1711)といえば、二十五歳で進士合格、清初を代表する詩人・学者で、康熙帝の信頼も篤く、皇帝侍読を経て官は刑部尚書(司法大臣)に至り、「清一代の詩風を造った」とまでいわれる方ですが、このひとが揚州の知事となって赴任してきました。
阮亭先生は、赴任して早々に、肝冷斎が揚州の州境のすぐ向こうに住んでいると知って、
「なんと、あの肝冷斎どのがそんな近くにおられるのか」
と、面会しにきた。阮亭先生の方から申し込んできたんですぞ。
高官ですので、お輿に乗って、何人も引き連れてやってきたが、
所居委巷、乃屛輿従、徒歩而入。
居るところ委巷なれば、輿・従を屛(しりぞ)けて徒歩にて入る。
肝冷斎の住居が狭い横丁の奥だったので、王は乗ってきた輿から降り、おつきの者も遠慮させて、一人歩いてその横丁に入って行った。
王が一礼して肝冷斎の部屋に入ると、・・・うわあ。
狭く、散らかっている上に、いろいろと悪臭もある。ちゅう、とネズミが走り、にゃにゃんとネコが追いかける。
そんな中で書を広げていた肝冷斎は、
「おぬしが王阮亭か。若いのによい詩を書かれる。強制労働の合間に読んで爽やかなキモチになりますぞ」
と、ゴミを少し片づけて座るところを作ると、
適有酒一斗、能飲乎。
たまたま酒一斗有り、よく飲むや。
「ちょうど酒が一斗ほど手に入ったんじゃ。飲んでいけるか?」
と訊いた。
「それはありがたい」
漁洋欣然為引満、流連移晷始別。
漁洋欣然として引満を為し、流連し移晷(いき)して始めて別る。
漁洋山人は大喜びでさかずきいっぱいに酒を注いでもらい、そのまま居続けて、日影が移り(夕方になって)はじめて別れたのであった。
「にゃにい、あのじじいのところに? むむむ・・・」
有司聞之、立除其役。
有司これを聞き、立ちどころにその役を除けり。
お役所の方にもそのことが耳に入ったところ、あっという間に強制労働は免除となった。
のであった。
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清・孫静安「棲霞閣野乗」下より。強制労働無くなってよかったですね。明日お彼岸でお休みだし・・・。あ、いけね、これは「肝冷斎」ではなく、「邵潜夫」というひとのお話でした。