北海道に行くとこいつらに気に入られるかも。
週末まであと四日もあるのか・・・。
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周の末年、というのはいつ頃のことか。周国が最終的に滅んだのは紀元前3世紀の半ばごろですが、そのはるか以前から、既に権力はもちろん権威も失墜していましたから、一応の権威を保持していた紀元前六〜五世紀、いわゆる春秋時代の終わりごろを指すと考えるべきでしょう。
すなわち、孔子が生きていた時代ということになります。
そのころ、「反景日室」(光を返す太陽の部屋)という名前の山の中に、ごろごろしている若者がおったそうなんです。
その名を李耼(りたん)という。
この山は、
与世人絶跡。
世人と跡を絶す。
世間の人は全く近寄らなかった。
のですが、そこには、耼が来る前から、
惟有黄髪老叟五人。或乗鴻鶴、或衣羽毛、耳出於頂、瞳子皆方、面色玉潔、手握青筠之杖。
ただ黄髪の老叟五人有り。或いは鴻鶴に乗じ、或いは羽毛を衣(き)、耳は頂より出で、瞳子はみな方、面色玉潔にして、手には青筠(せいいん)の杖を握る。
白い髪のじじい五人だけが住んでいた。こいつらは、巨大な鳥やツルに乗ったり、鳥の羽、ドウブツの毛で作った服を着ていて、耳な頭のてっぺんについていたり、全員ひとみが四角だったり、変なひとたちでしたが、顔色は玉のようにつるつるで、手にはいつも青竹の杖を握っていた。
異次元(仙界)か別の恒星系から来た謎の物体エックスみたいなじじいどもだったのですが、このくそじじいどもが(「じじい」かどうかも実はよくわかりません。地球人には老齢に見えた、というだけカモ)、どういうわけか耼を気に入ったらしく、
与耼共談天地之数。
耼とともに天地の数を談ず。
耼と、宇宙の構成を解き明かす数学的解法を論じ合っていた。
それから何十年か経って、老人になった耼は「老耼」と呼ばれるようになり、ついに山から人間世界に降り、周王朝に仕えることになった。
及耼退跡為柱下之吏、天下服道之術、四海名士莫不争至。
耼の退跡して柱下の吏と為るに及びて、天下道の術に服し、四海の名士、争いて至らざるなかりき。
周の時代、図書の類は宮殿内の柱の下に収蔵されており、そこに勤務する記録係、図書係を「柱下の吏」と呼んだんだそうです。
老耼が山から退いて、周国の図書係になったところ、天下のひとびとは老耼の学習していた道教の術に感服し、世界のあちこちから、名のある賢者たちが次々と争うように耼のところに来(て学んだのであっ)た。
このため、後世「柱下の吏」といえば老耼のことを指すようになったのですが、この老耼が、「老子」を書いた(正確には口述筆記させた)老耼そのひとで、彼に学びに来た「名士」の中には、魯の青年・孔丘もいた・・・そうなんです。
本当かどうか知らんけど。
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晋・王嘉「拾遺記」より。現実には目を向けず、こういう幻想的世界に没頭して、週末まで暮らしたいのじゃが・・・。