あずきを洗おうとアズキアライくんが池に行ってみると、池の水が凍り付いていた! 何かにこだわってしまうと、この池の水のように動かなくなってしまうぞ。
夕方から、立春前ですが春嵐のような天気になってきました。天気荒れるとやる気出るときもありますが、全く出ません。明日は暖かいらしいが手足も心も凍えているので、なんにもしたくないなー。動きたくないなー。
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保福禅師のところにいた僧侶が、羅漢寺の桂琛(ケイチン)和尚のところに来た。保福は桂琛とは兄弟弟子です。
和尚が問うた。
彼中如何示徒。
彼の中、如何ぞ徒に示すや。
「保福のところでは、どんなことをおまえらに言うておるんじゃな?」
僧は答えた。
和尚一日示衆云、塞却爾眼、教爾覰不見。塞却爾耳、教爾聴不聞。坐却爾意根、教爾分別不得。
和尚、一日衆に示して云う、「爾の眼を塞却すれば、爾に覰(うかが)わせんとするも見えざらん。爾の耳を塞却すれば、爾に聴かしむるも聞こえざらん。爾の意根を坐却すれば、爾に分別せしむるも得ざらん」と。
保福和尚は日ごろ、わたしどもにこのようにおっしゃっていました。
「おまえたちが目を塞いでしまったら、おまえたちに真理を見させようとしても見えないじゃろう。
おまえたちが耳を塞いでしまったら、おまえたちに真理を聞かせようとしても聞こえないじゃろう。
おまえたちが根性をそのままにしておくなら、おまえたちに理解させようとしても、できるはずがない」
と。
「へー」
何ごとも、一つの状態にこだわってしまってはいけない。
ただ、この僧は「こだわってはいけない」ということに、こだわってしまっているようである。
桂琛和尚は言いました。
我問爾、我不塞爾眼、爾見个甚麼。不塞爾耳、爾聞个甚麼。不坐爾意根、爾作麼生分別。
我、爾の問う、「我は爾の眼を塞がず、爾この甚麼(いんも)を見るや。爾の耳を塞がず、爾この甚麼を聞くや。爾の意根を坐せしめず、爾、作麼生(そもさん)か分別せん」と。
「ようし、では、わしから質問するよ。
わしはおまえさんの目を塞いでないぞ。おまえさんには何が見える?
おまえさんの耳を塞いでないぞ。おまえさんには何が聞こえる?
おまえさんの根性をそのままにはさせておかないぞ、さて、おまえさんには何が理解できるかな?」
「むむ!」
僧于言下有省。
僧、言下に省有り。
僧侶は、その言葉を聞いて悟るところがあった。
そうです。何を悟ったんだかわかりませんが。
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「聯灯会要」巻二十六「羅漢桂琛」条より。何にも見たくないし聞きたくないし動きたくないし、心も入れ替えたくないので、分別できそうにもありません。もうゴミですわー。
なお桂琛和尚についてはこちらも参照。コドモ禅師にご出場いただいているとは、当時は肝冷斎族にもゆとりがあったんだなあ。