平成32年1月28日(火)  目次へ  前回に戻る

あずきを洗おうとアズキアライくんが池に行ってみると、池の水が凍り付いていた! 何かにこだわってしまうと、この池の水のように動かなくなってしまうぞ。

夕方から、立春前ですが春嵐のような天気になってきました。天気荒れるとやる気出るときもありますが、全く出ません。明日は暖かいらしいが手足も心も凍えているので、なんにもしたくないなー。動きたくないなー。

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保福禅師のところにいた僧侶が、羅漢寺の桂琛(ケイチン)和尚のところに来た。保福は桂琛とは兄弟弟子です。

和尚が問うた。

彼中如何示徒。

彼の中、如何ぞ徒に示すや。

「保福のところでは、どんなことをおまえらに言うておるんじゃな?」

僧は答えた。

和尚一日示衆云、塞却爾眼、教爾覰不見。塞却爾耳、教爾聴不聞。坐却爾意根、教爾分別不得。

和尚、一日衆に示して云う、「爾の眼を塞却すれば、爾に覰(うかが)わせんとするも見えざらん。爾の耳を塞却すれば、爾に聴かしむるも聞こえざらん。爾の意根を坐却すれば、爾に分別せしむるも得ざらん」と。

保福和尚は日ごろ、わたしどもにこのようにおっしゃっていました。

「おまえたちが目を塞いでしまったら、おまえたちに真理を見させようとしても見えないじゃろう。

おまえたちが耳を塞いでしまったら、おまえたちに真理を聞かせようとしても聞こえないじゃろう。

おまえたちが根性をそのままにしておくなら、おまえたちに理解させようとしても、できるはずがない」

と。

「へー」

何ごとも、一つの状態にこだわってしまってはいけない。

ただ、この僧は「こだわってはいけない」ということに、こだわってしまっているようである。

桂琛和尚は言いました。

我問爾、我不塞爾眼、爾見个甚麼。不塞爾耳、爾聞个甚麼。不坐爾意根、爾作麼生分別。

我、爾の問う、「我は爾の眼を塞がず、爾この甚麼(いんも)を見るや。爾の耳を塞がず、爾この甚麼を聞くや。爾の意根を坐せしめず、爾、作麼生(そもさん)か分別せん」と。

「ようし、では、わしから質問するよ。

 わしはおまえさんの目を塞いでないぞ。おまえさんには何が見える?

 おまえさんの耳を塞いでないぞ。おまえさんには何が聞こえる?

 おまえさんの根性をそのままにはさせておかないぞ、さて、おまえさんには何が理解できるかな?」

「むむ!」

僧于言下有省。

僧、言下に省有り。

僧侶は、その言葉を聞いて悟るところがあった。

そうです。何を悟ったんだかわかりませんが。

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「聯灯会要」巻二十六「羅漢桂琛」条より。何にも見たくないし聞きたくないし動きたくないし、心も入れ替えたくないので、分別できそうにもありません。もうゴミですわー。

なお桂琛和尚についてはこちらも参照。コドモ禅師にご出場いただいているとは、当時は肝冷斎族にもゆとりがあったんだなあ。

 

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