シュールリアリスムの技法によりぶたとのの内面を描いたものである。いずれにせよ、ブタをいじめてはいけません。
今日も寒い。朝は出勤できないレベルでした。夜になったら雨降って寒い。なんとか雪にはならないようですが、外では寝られない。
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江蘇・山陰に龍興寺というお寺があって、その裏手に郭家池とか王家池と呼ばれる池があります。この池はいわゆる「放生池」で禁漁となっており、殺生を嫌がるひとが魚やらカメやらを放ちに来る場所であった。
龍興寺という寺は唐代からあって、広大な境内を有していたというそのころのことは知るよしもないが、わしが子どものころに年寄りどもは、
国初時、龍興寺中屋宇尚有千余間、環水皆廊、北接放生池大悲閣。
国初の時、龍興寺中の屋宇なお千余間有りて、環水みな廊、北は放生池の大悲閣に接す。
我が大清帝国の初め頃(17世紀半ば)には、まだ龍興寺の境内には全部で千間以上の広さの建物があり、まん中は池になっていてそれを一周めぐる回廊があって、北の端で(上記の)放生池につながっていて、そこには大悲閣という楼閣があった。
と教えてくれたものである。
そのころは、
毎臘後至王正、廟内外列肆櫛比、門攤席舎無尺寸隙地、貨物山積、百戯具陳。端午競渡亦然。
臘の後、王正に至るごとに、廟の内外、列肆櫛比(さんぴ)し、門攤(もんたん)の席舎は尺寸の隙地無く、貨物山積し、百戯具陳さる。端午の競渡もまた然り。
「臘」(ろう)は、冬至後三回目の戌の日。旧暦では十二月(臘月)の半ばぐらいになるかと思いますが、ゲンダイの太陽暦だと一月のちょうど大寒節のころになります。春節を迎えるための準備が始まる時期です。「王正」は「春秋」にいう「王の正月」の略で、旧暦の正月元旦。を「攤」(タン)は、ここでは「売り場」割り当てられた「みせ」の意。
毎年、年末から元旦にかけて、お寺の山門の内外には屋台の店が櫛の歯のように並び、門前の店の出先の席はまったく隙間も無いほどに人であふれ、品物は山のように積まれ、あらゆる大道芸が演じられていた。五月五日のハーリー(競艇)の日も同様であった。
そして、
沿池四面、竹籬花圃、酒楼歌館、竟夕笙歌不輟。
池の四面に沿いては、竹籬花圃、酒楼歌館ありて、竟夕笙歌輟(や)まざりき。
放生池の四方に沿って、竹の塀に囲まれた花畑があり、その間に酒楼と歌館があって、一晩中、笛と歌声が止むことがなかった。
という。
むかしは繁栄していたようです。しかし、
厥後日就頽傾、竟至寸瓦無有。
その後、日に頽傾に就き、ついに寸瓦も有る無きに至れり。
その後、日に日に建物は崩れ傾き、(わしらが物心ついたころには、)とうとう一枚の瓦(分の建物)も無い状況になってしまっていたのだ。
わしは乾隆乙丑年(1745)から壬申年(1752)の間、その門前に棲んでいた(筆者は雍正五年(1727)生まれ)から、
毎当夕陽在衣、人影落水、徘徊荊棘瓦礫之中、惟見三金身高聳十数丈、卓立雲表。
夕陽の衣に在り、人影の水に落つるに当たるごとに、荊棘瓦礫の中を徘徊し、ただ三金身の高く十数丈に聳え、雲表に卓立するを見たり。
夕日が衣を照らし、人の影が池水の面に映るころになると、毎日、いばらとガレキの草むらを徘徊していたものである。そのあたりには、ただ、数十メートル(一丈=3.2メートル)の高さの三体の巨大な銅像が、雲の上まで届くかというぐらい高くそびえ立っているばかりであった。
これは、かつて「大悲閣」の中にうやうやしく祀られていた仏像なのだ。
三体の仏像は、
各踞坐一石磴上、頭頂一箬葉斗笠、囲遮半面、束麻結纓縛于仏項、自肩臂以下、則任風吹雨淋矣。
おのおの一石磴(とう)上に踞坐し、頭に一の箬(じゃく)葉斗笠を頂き、半面を囲遮すし、束麻にて纓を結びて仏の項に縛る。肩臂より以下は、すなわち風の吹き、雨の淋たるに任せたり。
それぞれ石の台座の上に結跏して趺坐しておられ、頭には竹で編んだ漏斗状の笠をかぶって、それによって顔の半分ぐらいは守られていた。麻の束で笠の紐を作り、これによって仏像の首に笠をくくりつけてあった。(笠に守られない)肩は腕から下は、風に吹かれ、雨に濡らされるがままにされていたのである。
「ぶうぶう」
何の音であろうか。
石磴下有群豕窟処。
石磴下に群豕の窟処有るなり。
石の台座の下には穴が掘ってあって、そこにブタが飼われていたのだ。
ブタはおもしろい。
予与紫坪暇則往遊、十日凡五六至、至則持鞭追豚以為笑楽。
予、紫坪と暇なれば往遊して、十日におよそ五六至し、至ればすなわち鞭を持ちて豚を追いて以て笑楽を為せり。
わしは弟の紫坪(しひょう)と、暇があるとそこに行って、―――十日に五六回は行ったと思う―――、行けばムチを持って行って、それでブタどもを追いまわしては、楽しく笑ったものである。
ぶ―――!! 二十代前後のいい大人がこんなことをするとは! ブタがかわいそうでぶー!
三冬、湖凍氷堅、毎与胡賓南于高兄弟以瓦片撃氷為飛堕之戯。
三冬には湖凍りて氷堅く、つねに胡賓南于高兄弟と瓦片を以て氷を撃ち、飛堕の戯れを為せり。
冬の終わりの一番寒いころには、池の表面が凍り付いて、堅い氷に覆われた。そうすると、いつも胡賓南と于高の兄弟と集まって、瓦のかけらを氷に投げつけ、何度も跳ね飛ばして遊んだものである。
この兄弟も同年代でこんなことして遊んでいたのだ。ブタには被害はありませんので文句は言いませんが。
ああ。
忽忽将二十余年矣。
忽忽として、まさに二十余年ならんとす。
あっという間に、あのころから二十年以上が過ぎてしまった。
最近、郷里の先達たちの詩を読んでいたら、閻古古(えん・ここ)に「放生池に遊ぶ」という作品があった。
縁市灯揺千屋影、 市を縁(めぐ)りて灯は千屋の影を揺らし、
隔渓香静百花樊。 渓を隔てて香は百花の樊(まがき)を静む。
縁日の店のまわりの灯火は、(池に映る)何千の家家の影を揺らし、
水路の向こうから、何百の花の咲く垣根が静かに香ってくる。
なるほど。
彼時猶及其盛也。
彼の時、なおその盛んなるに及ぶ。
どうやら彼の時代は、まだ寺の盛んなころであったのだ。
また、劉水心に「放生池を過ぐ」という詩があって、
僧窗曲曲臨池啓、 僧窗は曲曲として池に臨みて啓(ひら)き、
官樹行行倚郭栽。 官樹は行行として郭に倚りて栽えらる。
坊主どもの部屋の窓は丸いのや四角いのや、景色のよい池に向かって開いている。
お役所の木々はずらりと並んで、城壁に沿って植えられている。
というのだが、
今皆無有。
今は皆有る無し。
今となっては、窗も並木も何にも無い。
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「茶余客話」巻二十二より。今日は寒くて雨が強く、(えさやりも早々に)早めに家に帰ってきたので、長いの訳してみました。18世紀半ばごろの作品なんですが、なかなか近代的な抒情性に富むいい文章ですよね。ブタさえいじめなければもっとしみじみと味わえたのだが。ぶうぶう。