平成32年1月24日(金)  目次へ  前回に戻る

たいへんキビシイ状況である。年(旧暦)を越せるであろうか。しかし、「四面楚歌」ではありません。「四面楚歌」なら四面が「鼠」になるはずだ。腹が減っているネコは「若敖氏の鬼」となっているのだ。

もうダメだ。シゴトはツラいし、寒いし、腹も減ってきた。

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元の時代において、

已死才人不相知。

已に死せる才人にして相知らざる。

もう死んだ才子で、面識のなかったひと―――。

としては、まず

胡正臣が挙げられよう。

胡正臣は杭州のひとで、金志甫や沈和甫といったわたしが知り合った先輩たちとも付き合いがあったということだが、

董解元西廂記、自吾皇徳化至終篇、悉能歌之。至於古之楽府、慢詞、李霜涯賺令、無不周知。

董解元「西廂記」の、「吾が皇徳化して」より終篇に至るまで、ことごとくよくこれを歌う。いにしえの楽府、慢詞、李霜涯の賺令に至るも、周知せざる無きなり。

金の董解元の楽曲「西廂記」の、「われらが皇帝の徳により・・・」から最後の部分まで、すべて歌うことができたという。(今では正式には伝わっていない金代の楽曲をすべて諳んじていたのだ。)この他にも、古くからの楽曲、お笑い歌、李霜涯が作った「皮肉シリーズ」まで、知らない歌曲は無かったのだ。

という、風流才子であった。なお、李霜涯は宋のひと、詞曲に優れたという。

胡正臣は、

辞世已三十年矣、士大夫想其風流醞藉、尚在目前。

辞世すでに三十年にして、士大夫その風流醞藉(うんしゃ)を想うに、なお目前に在りという。

死んでからも三十年も経つのだが、詩人たちは彼の風流と、かもし出していた雰囲気を思い出し、いまも目前にあるようだ、という。

其子存善能継其志。

その子、存善はよくその志を継げり。

その子の胡存善は、よくおやじの志を継いでいる、というべきであろう。

名高いおやじ同様、存善も風流才子で名を売っているのだ。

ちなみに、実は、わたしは存善とはよく知り合った仲なのである。

おやじと存善のために、このように言っておこう。

人孰無死、  人たれか死無からんや、

死而有子。  死して子有り。

人孰無子、  人たれか子無からんや、

如胡公之嗣、 胡公の嗣の如きあれば、

若敖氏之鬼不餒矣。 若敖氏(じゃくごうし)の鬼も餒(う)えざらん。

 人間、いったい誰が死なずにいられよう、

 けれど、死んでも子どもが遺る。

 人間、いったい誰に子どもがいなかろう、(たいていは子どもがいても落ちぶれるが)

 けれど、胡氏の後継ぎみたいなのがいれば、

 若敖氏のご先祖たちも腹が減らずにやっていけるというものじゃ。

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元・鍾嗣成「録鬼簿」下巻より。生きていても腹減りますが、死んだ後も減るとは。

「若敖氏の鬼、餒えん」というコトバは肝冷斎一族でさえ知っているぐらい有名なので解説は要らないと思いますが、

―――おいおい、肝冷斎一族は知らないので解説できないのではないか? ああん? どうなのん?

と言われるのも癪なので、解説しておきます。

・・・春秋の時代、楚の王族の若敖(じゃくごう)は、云の国の女性と交わって闘伯比(とうはくひ)が生まれた。若敖が亡くなったあと、比はその母の国に養われていたが、ここで国主の云子の娘とひそかに淫して子文(しぶん)という子が生まれた。云子の夫人(ムスメのおふくろ)は、孫に当たるこの子を雲夢の沢の中に捨てさせたところ、

虎乳之。云子田、見之、懼而帰。夫人以告、遂使収之。

虎これに乳す。云子田してこれを見、懼れて帰る。夫人以て告げ、遂にこれを収めしむ。

トラが(人間の代わりに)その赤ん坊に乳を与えていた。たまたま云の君主は狩りに出かけて、その様子を見、

(なんでトラが人間の子どもに乳をやっているのだ? なんなんだ、これは?)

と怖くなって帰ってきた。その話をすると、夫人は「それはあなたの孫なんです」と事実を告げたので、すぐに人を遣ってその子を回収させたのであった。

楚人謂乳穀、謂虎於菟、故命之曰闘穀於菟。

楚ひと、乳を「穀」と謂い、虎を「於菟」と謂う。故にこれに命(なづ)けて「闘・穀於菟」(とう・こくおと)と曰えり。

楚の地方の方言では、「乳」を「こく」といい、「トラ」のことを「おと」という。そこで、その赤ん坊に、「闘家のこくおとちゃん(トラの乳のみ子)」と名づけたのである。

この子は長じて、闘伯を継ぎ、子文と字して、楚の名宰相(楚では宰相を「令尹」といいます)となった。この一族が若敖氏(じゃくごうし)なのですが、子文の弟・子良に子越という子が生まれると、子文は子良に向かって、

必殺之。是子也、熊虎之状豺狼之声、弗殺必滅若敖氏矣。諺曰狼子野心。是乃狼也、其可畜乎。

必ずこれを殺せ。この子や、熊虎の状、豺狼の声なり、殺さざれば必ず若敖氏を滅ぼさん。諺に曰く「狼子に野心あり」と。これすなわち狼なり、それ畜すべけんや。

「よいか、必ずこの赤ん坊は殺せ。この子は、その姿はクマかトラのようであり、その声はヤマイヌやオオカミのようだ。殺さなければ必ず我が若敖氏は滅亡することになるだろう。ひとびとが言っているだろう、「オオカミの子には野生に戻ろうとする心がある」と。この子はまさにそのオオカミなのだ、どうやって飼いならすことができようか」

しかし子良は殺すに忍びず、生かしておいた。ちなみに「野心」というのは本来「野生の心」であって、この故事から「不相応な望み」という意味を持つようになったんです。

子文は死ぬ間際に子越が生きていることを知って、

泣曰鬼猶求食、若敖氏之鬼不其餒而。

泣きて曰く、「鬼なお食(し)を求むるならば、若敖氏の鬼はそれ餒(う)えざらんや」と。

泣いて言った。「霊魂もやはり食べ物を欲しがるものであれば、若敖氏の先祖の霊魂は、(子孫が滅びてお供え物が無くなるので)飢えることになるのだなあ」と。

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「春秋左氏伝」宣公四年(紀元前605)条より。「左氏伝」は、「予言が必ず当たること」を証明するために作られたものなので、出て来る予言はたいてい成就します。やがて子越は令尹(楚の宰相の官名)となり、さらに自己を過信して謀反を起こし、楚王に敗れて一族誅滅されるに至ったのである。

全滅した・・・と思ったんですが、子文の孫に箴尹克黄(しんいんこくこう)というひとがいた。ちょうど斉の国に使者として出向いて、

還及宋聞乱。

還りて宋に及んで乱を聞く。

帰還する途中、宋の国まで来たところで、一族が謀反を起こし、誅殺されたという報せを聞いた。

「ええー!」

告げに来てくれたひとが言った。

不可以入矣。

以て入るべからず。

「帰国されてはいけません」

「うーん」

箴尹は言った。

「どこかの国に亡命しろ、というお教えでしょうが、王は天と同じであるから天下にいる限り王からは逃げられません、という理屈はともかく、

棄君之命、独誰受之。

君の命を棄つ、ひとり誰かこれを受けん。

主君から使者として派遣されたのです。その御命令を果たさずに途中で逃げ出したら、いったいどこの国が、わたしのようなものを受け容れてくれましょうか」

そうして、

遂帰復命。

遂に帰りて復命す。

結局、帰国して復命したのであった。

王思子文之治楚国也、曰子文無後、何以勧善。

王、子文の楚国を治むるを思い、曰く「子文の後無ければ、何を以て善を勧めん」と。

楚王(荘王。在位前613〜前591)は、令尹子文が楚の国をよく治めていたことを思い出し、「子文の子孫が絶えてしまうようなら、どうやって国のために尽くしてくれと他のひとに言えるのだ?」と言った。

そして、

使復其所、改命曰生。

その所に復せしめ、改めて命じて「生」と曰えり。

もとの地位と領地に戻して、名前を「生」(生き返ったくん)と改名させた。

なんと! 若敖氏には後継が遺り、予言は成就しませんでした。どうも正義の人はその後継者が福を受けるらしいぞ。なぜかというに、「左氏伝」は紀元前374年、斉の国で下剋上によって王位についた田氏の、簒奪の正当性を証明するために編纂されたものなので、その証明に有利な「(田氏がいずれ王位に就くと昔予言されていたように、)予言というものは成就するものだ」は当然ですが、「(田氏が代々立派に斉の宰相を務めてきたように)立派な宰相の子孫はやがて報われる」というテーゼも許容されるからである。

チャイナの歴史書なんて100パーセント、現政権の正当性を説明するためのもの、なんで、「左氏伝」もこんなものなんです。歴史書は信用できないんですが、人口1000万以上のメガロポリス武漢や黄岡を「封鎖」するのですから、さすがに防疫力は信用できる・・・か?

 

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