令和元年12月24日(火)  目次へ  前回に戻る

いい子にしてたら何かいいものくれるのかなー。コドモだからシゴト行かなくていい権利とかもらえるかなー。

年も明けないのに絶望的になってきました。

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魯の襄公の二十三年(前550)、秋、斉の荘公(在位前553〜548)は衛を伐ち、そのまま晋を伐った。

賢者の晏嬰が諫めて言った、

君恃勇力、以伐盟主。若不済国之福也、不徳而有功、憂必及君。

君勇力を恃みて以て盟主を伐つ。もし済(な)らざれば国の福なり、不徳にして功有れば、憂い必ず君に及ばん。

「とのは勇気と力を頼みにして、同盟の主である晋を攻撃しようとなさる。もしうまくいかなかったら、その方が我が国にとっては幸いになりましょう。悪いことにうまくいってしまったら、いずれはとのに悪いことが起こりますぞ」

筆頭大夫の崔杼も言った、

不可。臣聞之、小国間大国之敗而毀焉、必受其咎。君其図之。

不可なり。臣これを聞く、小国の大国の敗にフして毀(こぼ)つは、必ずその咎を受く。君、それこれを図れ。

「ダメです。「弱い方の国が強い国に何らかの問題があるときに、それを利用して攻撃したら、必ずあとで損害を受ける」という理論がございます。(当たり前です、実力で優るのではないから、強い国が問題を克服したあと、必ずやり返されますから)。との、よくよくお考えくだされ」

しかし、荘公は、

「今がチャンスだぞ! これを生かさない法があるか!」

と晋を攻めました。

晋の方は国内に対立があって軍隊には全く戦意無く、斉軍は敵無きがごとく進軍して、朝歌の城を取り、孟門から大行に至り、少水のほとりで殺した晋兵の死体を埋めて塚を築き、その上に記念碑を置いて引き上げた。結局、斉軍にはほとんど被害も無く、伝説的な大勝利となったのである。(「春秋左氏伝」襄公二十三年

その後、それが原因でいろいろあって荘公は殺され、国は大いに乱れることになる・・・のでございますが、それはまたお話しいたすといたしまして、それから十数年、荘公の子・景公(在位前547〜前490)の時代、なんとか国内も落ち着いたころのことでございます。

景公令兵摶治。

景公、兵をして摶治(だんち)せしむ。

「摶治」(だんち)は「丸めて完成させる」の意味ですが、これは城壁などを築く際に、土団子を作って積み上げ、それを固めていくのですが、その土団子を作る作業のことです。

景公さまは、新たな建築のため、兵士たちに粘土の団子を作る作業を命じた。

ところが、

当臘冰月之間而寒、民多凍餒而功不成。

臘の冰月の間に当たりて寒く、民多く凍餒(とうだい)して功成らず。

「臘月」は旧暦の十二月。

氷つく十二月のころでしたので、人民出身の兵士らはみな凍え飢えていて、作業は進まなかった。

景公はその報告を聞いて、

怒曰、為我殺其二人。

怒りて曰く、「我がためにその二人を殺せ」と。

たいへんお怒りになられ、おっしゃった。

「わしの命令じゃ、その中から二人ほど見せしめに殺してしまえ!」

この命令を聞いた晏嬰は、(担当の者を押しのけて)言った、

諾。

諾せり。

「わかりましたー!」

しかしながら、何にもしない。

何もしないまま、

少為間。

少しく間を為す。

しばらく時間が経った。

それから晏嬰は、さも感に堪えぬというように言った。

昔者先君荘公之伐于晋也、其役殺兵四人。今令而弑兵二人。是師之半也。

昔者(むかし)、先君荘公の晋に伐つや、その役に兵四人を殺す。今、令して兵二人を弑す。これ師の半ばなり。

「そういえば、むかし、先代の荘公さまが晋を攻撃なさったときを思い出しますわい。あのとき、わが軍の戦死者はわずか四人でございました。いま、とのさまは兵士二人を殺せとのご命令じゃ。あの戦いの半分の死者を出す(ほどの重大な問題な)のですなあ」

それを聞いて、景公は苦々しげにおっしゃいました。

諾。是寡人之過也。

諾せり。これ寡人の過ちなり。

「わかった。わしが間違っておったな」

令止之。

令してこれを止どむ。

すぐ命令して、死刑を取り消した。

んだそうです。

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「晏氏春秋」巻一「諫下」より。以上でわかりますように、寒いとわれら人民は動かないんです。腹も減るし。明日会社行きたくないよー。

 

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