令和元年12月25日(水)  目次へ  前回に戻る

鳥のくせにニンゲンに捕らえられるようなオロカものは鳥の風上にも置けないでコケ―!

もうめんどくさいから、はやく世俗を離れて仙人になりたいなあ。岡本全勝さんにも高く評価(http://zenshow.net/2019/12/24/冬も元気な肝冷斎/)されたし、潮時かも?

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粤人、といいますから、福建のひと、

有采山而得菌。

山に采して菌を得る有り。

山中に薬草を採りに入って、キノコを得た。

ただのキノコではない。

其大盈箱、其葉九成、其色如金、其光四炤。

その大いさ箱に盈ち、その葉は九成し、その色は金の如く、その光四炤す。

その大きさは箱いっぱいになるほどで、そのカサは九段階に成長したあとがあり、その色は金ぴか、てかてかと四方に光を反射して輝いていた。

我々カシコいゲンダイ人ならちょっと食べる気にはならない毒々しさですが、何しろむかしのひとですから、そうは思わなかった。

家に持って帰ってきて、息子をはじめ家族に言う、

此所謂神芝者也。食之者仙。吾聞仙必有分、天不妄与也。人求弗能得、而我得之。吾其仙矣。

これいわゆる神芝なるものなり。これを食らう者は仙。吾聞く、仙には必ず分有り、天は妄りに与えず、と。人求むれども得るあたわずして、我これを得たり。吾それ仙ならん。

「これはおそらく、よくいわれる「神秘のコケ」というものであろう。これを食べれば仙人になる。わしの知識では、仙人になるかならないかは天がそのひとに分け与えた宿命に依るのであり、その宿命はいい加減に与えられるものではない。ひとびとが求めてやまないものを、わしはいま得たわけだから、わしには仙人になる宿命があったのだなあ」

そして、

沐浴齋三日而烹食之。

沐浴し斎すること三日にして、これを烹食せり。

風呂に入って身を清め、三日間物忌みしてから、そのキノコを煮て、食った。

すると、

入嚥而死。

入嚥して死せり。

一口飲み込んだ・・・と思った瞬間に死んでしまった。

すごい毒キノコだったのだ。

しかし、息子は父親の死体を見て、にやにやしました。

「うっしっし。

吾聞得仙者、必蛻其骸。人為骸所累、故不得仙。今吾父蛻其骸矣。非死也。

吾聞く、仙を得る者は必ずその骸を蛻す。人は骸の累するところと為り、故に仙を得ず。今吾が父、その骸を蛻せり。死にあらざらん。

おいらの知識では、仙人になった者はその肉体から脱皮するように脱け出していき、ぬけがらを残していくものだという。ニンゲンは肉体に縛られて仙人になれないのだ。いま、うちのおやじはその肉体をぬけがらとして残していった。死んだわけではあるまい。

うっしっし、おいらも仙人になるぞ」

と言いまして、

食其余、又死。

その余を食らい、また死せり。

なべの残りを食べて、またたちどころに死んでしまった。

「わーい、おにいちゃんも仙人になったよー」「わーい」「わーい」

同室之人皆食之而死。

同室の人、みなこれを食らいて死せり。

同じ家の者たちは、全員このキノコなべを食って、みんな死んでしまったのであった。

いいなあ、みんな仙人になれたんだなあ。

ところが、この事件を聞いて、郁離先生は嘆息しておっしゃった。

今之求生而得死者、皆是之類乎。

今の生を求めて死を得る者、みなこの類か。

―――現在、よりよい生を遂げようと欲を出して却って滅亡してしまうやつらは、みんなこの人たちの同類ではないだろうか。

張網以逐禽使無所逃而獲、非不知而不避者也。設食而機之則其獲也、皆非知之而不避者也。

網を張りて以て禽を逐うに、逃るるところを無からしめて獲るは、知らずして避けざる者にはあらざるなり。食を設けてこれを機してすなわちそれ獲るや、みなこれを知りて避けざる者にはあらざるなり。

―――網を張って鳥を捕らえようとするとき、全方向に網を広げて逃げられる方向を一つも無くしてあれば、鳥はわかっていても捕らえられてしまうわけである。一方、エサを置いてワナに誘い入れて捕らえるなら、それで捕まる鳥は、すべてわからずに捕らえられているわけだ。

わかっていても捕らえられる鳥は仕方が無い。我等ニンゲンもいずれ死ぬのだ。しかし、わからずに捕らえられる鳥は自ら毒キノコのなべを食っているニンゲンなのである。

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明・劉基「郁離子」巻上。どーん、と直球でみなさんにぶち当たる寓話でしたね。ここまで言われたのではみなさんもツラいのでは? え? 自分のこと言われてる、とは思ってないんですかああああ? 

 

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