「ヤラれるぐらいなら先にやってやるでコケ!」と威張るニワトリだ。ああ、おいらにもこれぐらい強いココロがあったらなあ・・・。
肝冷斎は隠棲していますが、一族の肝細齋はめいじられるままに会社に出勤してました。やっぱり仕事はムリや。プレッシャーでキモチ悪くなってきます。
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茅容、字・季偉は、後漢・陳留のひとである。
年四十余耕於野時、与等輩避雨樹下。衆皆夷踞相対、容独危坐愈恭。
年四十余、野に耕せる時、等輩と雨を樹下に避く。衆みな夷踞して相対するに、容のみひとり危坐していよいよ恭し。
もう四十何歳のころであるが、農夫として田野で耕作に従事していた時、雨が降ってきたので仲間たちと一緒に大樹の下に雨宿りした。他の仲間たちはみんなあぐらをかいて向かい合って座っていたが、茅容だけはひとり正座して、(ほかのやつらがくだけているのに)目だって恭しい様子が見えた。
同じ木の下で、郭太、字・林宗というひと雨宿りしていて、茅容の姿を見て、
「おまえさん、隣に座ってもいいか」
と声をかけた。
郭太は国家に仕えたことはなかったが、人材を見抜く能力を持つと言われていた人物である。
郭太がいろいろ話しかけてみると、茅容は田舎者らしい朴訥さで、ぼそぼそと答える。
遂与共言、因請寓宿。
遂にともに言い、因りて寓宿を請う。
二言三言話しているうちに、郭太の方から「今晩おまえさんの家に泊めてくれんか」と頼んでみた。
茅容は頷いた。
かくして一晩泊めてもらったのですが、
旦日容殺雞為鐉、林宗謂為己設。
旦日、容、雞を殺して鐉を為し、林宗謂為(おもえ)らく、おのれのために設くるならん、と。
朝になると、茅容は家のニワトリを一羽つぶして、料理を始めた。林宗はそれを垣間見て、「客人のわしのために料理してくれるのじゃな」と思った。
決して豊かそうではないが、気前のいい男ではないか。
ところが、
既而以共其母、自以草蔬与客同飯。
既にして以てその母に共し、自らは草蔬を以て客と同飯す。
結局のところ、そのニワトリは彼の母親のための料理に使われた。そして自分は、粗末な野菜料理で客人の林宗と一緒にメシを食ったのであった。
「ああ」
林宗起拝之曰、卿賢乎哉。因勧令学卒以成徳。
林宗起ちてこれを拝して曰く、「卿は賢なるかな」と。因りて勧めて学ばしめ、ついに成徳を以てす。
郭林宗は立ち上がって茅容にお辞儀をして、言った。
「あなたは賢者であられる」
そして、学問をするように勧め、ついには徳のある人として評判になった。
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孟敏、字・叔達、鋸鹿楊氏(地名。河南である)のひとである。
客居太原、荷甑堕地。
太原に客居し、甑(こしき)を荷いて地に堕とす。
山西の太原に滞在していた。ある時、(煮炊き用の)コシキを背負っていたのだが、これを地面に落としてしまった。
がしゃん。
陶器のコシキは音を立てて壊れてしまった。
ところが、孟敏は
不顧而去。
顧みずして去る。
振り向きもせずに行ってしまった。
これを、ちょうど郭林宗が見ていた。
林宗は追いかけて行って、
「おまえさん、生活に大切なコシキなのではないか。振り向きもしないのはなぜか」
と問うたところ、
対曰、甑已破矣。視之何益。
対して曰く、甑すでに破れたり。これを視るも何の益かあらん、と。
答えて言うに、
「コシキはもう壊れてしまいました。振り向いてみたところで何にもなりませんから」
と。
「ああ」
林宗以此異之、因勧令遊学十年、知名三公。
林宗これを以てこれを異とし、因りて勧めて遊学せしむること十年、名を三公に知らる。
郭林宗はこれによって「こやつは大したやつじゃ」と認め、遊学するように勧めたところ、十年後には、その名を大臣たちにも知られるようになった。
のであった。
ただし、
倶辟並不屈云。
ともに辟(まね)かるるも並びに屈せずと云う。
茅容も孟敏も、ともに官職に就くよう招聘されたが、二人とも圧力に屈せずに仕官しなかった、ということだ。
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「後漢書」巻九十八・郭太等列伝より。仕官しなかったのでプレッシャーに潰されることも無かったのでしょう。賢者だなあ。
この調子では明日からまた行方知れずになりそうなので、今日は二日分ぐらいご紹介してみました。またすごい深夜になってきた。寒いし、明日の朝は出勤だし、なんとオロカなことであろうか。
なお、どちらも有名なお話なんですが、特に前半の茅容のニワトリ殺しのエピソードは、朱晦庵の「小学」巻六「善行」に採られて極めて有名です。
―――晦庵先生、どこが「善行」なんですか?
実敬身。
身を敬(つつ)しむを実にす。
―――生活態度を恭しく謹しむ、ということのすばらしい実例ではないか。
なんだそうです。