令和元年12月3日(火)  目次へ  前回に戻る

この季節の雪だるまは雪だるま式に巨大化するので、乗っているうちに降りるに降りられなくなったりする。まるで妄想や不安のように・・・。

現世を離れて気楽にやっておりますよ。みなさんも現世を離れたこちらの世界について聞いたことがあるでしょう?

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不聞不若聞之。

聞かざるはこれを聞くに若かず。

聞いたことが無いなら、聞いてみるといいですよ。

聞之不若見之。 

これを聞くはこれを見るに若かず。

聞いたことがあるなら、さらに実際に見てみる方がよい。

見之不若知之。 

これを見るはこれを知るに若かず。

実際に見たことがあるなら、さらに理解してみる方がよい。

知之不若行之。 

これを知るはこれを行うに若かず。

理解したなら、もう実行あるのみじゃ。

学至於行之而止矣。

学はこれを行うに至りて止む。

学問というものは、実行まで行って、やっと一段落なのである。

行之明也。明之謂聖人。

これを行えば明らかなり。明らかなる、これを聖人と謂う。

実行すれば問題点もすべて明白になる。何事も明白であれば、そのひとは聖なるひと、と呼ばれるだろう。

聖人也者本仁義、当是非、斉言行、不失毫釐。

聖人なるものは仁義に本づき、是非を当(とう)し、言行を斉(ひとし)うし、毫釐も失わず。

聖なるひとというのは、その言動は仁と義に基づき、その是非の判断はいつも正当で(つまり「是」なんですが)、言っていることとやっていることは同じで、ほんの少しも違わない。

「毫」(ごう)は秋になって抜け替わったばかりのケモノの毛。まだ細く短いので、「わずか」の意味になります。「釐」(り)はもともと「里」で作られた収穫物を各家に取り収める意で「おさめる」と訓じる字ですが、同じ意味の「厘」(りん)と通用して、長さの単位「分」の十分の一(0.3ミリぐらい)に使われるので、やはり「わずか」の意味になります。

無他道焉、已乎行之矣。

他道無きなり、これを行うに已むなり。

そこまで行くのに、別に特別な方法があるのではない。ただ実行してみた、というだけなのである。

簡単なんです。

逆に、

聞之而不見、雖博必謬。 

これを聞きて見ざれば、博といえども必ず謬(あや)まる。

聞いたことがあっても実際に見てないなら、いろんなことを知っているというだけで必ず間違う。

見之而不知、雖識必妄。

これを見てこれを知らざれば、識といえども必ず妄る。

実際に見ていても理解していないなら、認識はしているというだけで必ず混乱する。

知之而不行、雖敦必困。

これを知りてこれを行わざれば、敦(とん)といえども必ず困(こう)ず。

理解していたとしても実行していないなら、修めているというだけで必ず困惑する。

さらには

不聞不見、則雖当非仁也。其道百挙而百陥也。

聞かず見ざれば、すなわち当すといえども仁にあらざるなり。その道、百挙して百陥す。

聞いたことも実際に見たことも無い、などというならば、なんだかうまく行きそう、といっても心の通ったものではない。そのやり方では、百回やってみて百回とも大失敗するであろう。

だからひとには(指導者。マイスター)と(規律。ディシプリン)が必要なんじゃよ。もし師と法がないなら、どんな優秀なやつでも・・・

・・・ダメだ。深夜です。明日も出勤なんで、本日はここまでといたします。

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「荀子」儒効篇第八より。あ、すいません、もう現世を離れているんで、明日も出勤するなんていうのは妄想だ。妄想なんだ。現世を離れたこちら側で何か別の用事があるんです。えーと、えーと、・・・あ、そうだ、明日はカスミの試食会に行って、それからハチミツ風呂に入ったりして、楽しく過ごすんでムシー!

 

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