現世から離れて仙界に近づくと、道士や仙人と会えるかも知れません。あまり知られていませんが、ぶたの国に近づくとぶたパン屋やぶたデビルなどがいます。
まだ水曜日だったとは。
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わしは旅の途上にありますが、今日はぽつぽつと雨も降りました。
まったくのところ、
羇客在雲村。
羇客、雲村に在り。
旅の客が、雲のたなびく村に滞在していた。
のである。
今日は、
蕉雨点点、如奏笙竽、声極可愛。
蕉雨点点として、笙竽(しょうう)を奏するが如く、声極めて愛すべし。
今日は芭蕉の葉にぽつぽつと雨が落ちる音がして、まるで管楽器を演奏しているような、その音はとても心に染みたのだ。
笙(しょう)と竽(う)は、次のようなものなんです。一応、「竽は笙の大なるものなり」とされますが、おんなじに見えますね。しかし、笙は19管または13管、竽はもと36管の大きなものであったが、今は19管という違いがありま・・・ん? おんなじになる時もあるのでしょうか・・・。
これが「竽」こちらが「笙」
厳密なことは気にしないことにしましょう。
その音を一日中聞いていたら、夜には晴れ上がって、星空がきれいである。
見上げていると、ばさり、ばさり、とゆるやかな羽の音が聞こえた。
「わはは、わしじゃ」
山人読易礼斗後、騎鶴以至。
山人易を読み斗に礼する後、鶴に騎(の)りて以て至るなり。
山中に棲む道士どのが、日課の易経の研究を終え、北斗星を拝礼する儀式を済ませて、ツルに乗って遊びに来たのである。
「ちょうど一献、と思っていたところですよ」
と、出迎えると、
「くーん」
とひときわ高くツルが鳴いた。その声、
不減聞韶也。
韶(しょう)を聞くにも減ぜず。
「韶」の曲を聞くのと比べても、同じぐらいのすばらしさである。
「韶」は伝説の舜帝の時代の音楽で、すばらしいもの、とされておりました。
「論語」八佾篇に曰く、
子謂韶、尽美矣。又尽善也。謂武、尽美矣。未尽善也。
子、「韶」を謂う「美を尽くせり。また善を尽くす」と。「武」を謂う「美を尽くせり。いまだ善を尽くさず」と。
先生が舜帝の時代の音楽である「韶」について、おっしゃった。
「美しさを窮めているなあ。また、善のこころが窮められているなあ」
周の武王の時代の音楽である「武」について、おっしゃった。
「美しさを窮めているなあ。善のこころは(いいところまで行っているんだけど)窮められてはいないなあ」
と。
しかし今はどちらも伝わっておりません。
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「酔古堂剣掃」巻十二「倩」より。すばらしいなあ。
明日からまたさらに遠いところへ羇旅の客となります。さらに仙界に近いところとなるので、現世の電波は届かず、更新できないだろうと予想されます。