令和元年11月27日(水)  目次へ  前回に戻る

現世から離れて仙界に近づくと、道士や仙人と会えるかも知れません。あまり知られていませんが、ぶたの国に近づくとぶたパン屋やぶたデビルなどがいます。

まだ水曜日だったとは。

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わしは旅の途上にありますが、今日はぽつぽつと雨も降りました。

まったくのところ、

羇客在雲村。

羇客、雲村に在り。

旅の客が、雲のたなびく村に滞在していた。

のである。

今日は、

蕉雨点点、如奏笙竽、声極可愛。

蕉雨点点として、笙竽(しょうう)を奏するが如く、声極めて愛すべし。

今日は芭蕉の葉にぽつぽつと雨が落ちる音がして、まるで管楽器を演奏しているような、その音はとても心に染みたのだ。

笙(しょう)と竽(う)は、次のようなものなんです。一応、「竽は笙の大なるものなり」とされますが、おんなじに見えますね。しかし、笙は19管または13管、竽はもと36管の大きなものであったが、今は19管という違いがありま・・・ん? おんなじになる時もあるのでしょうか・・・。

これが「竽」こちらが「笙」

厳密なことは気にしないことにしましょう。

その音を一日中聞いていたら、夜には晴れ上がって、星空がきれいである。

見上げていると、ばさり、ばさり、とゆるやかな羽の音が聞こえた。

「わはは、わしじゃ」

山人読易礼斗後、騎鶴以至。

山人易を読み斗に礼する後、鶴に騎(の)りて以て至るなり。

山中に棲む道士どのが、日課の易経の研究を終え、北斗星を拝礼する儀式を済ませて、ツルに乗って遊びに来たのである。

「ちょうど一献、と思っていたところですよ」

と、出迎えると、

「くーん」

とひときわ高くツルが鳴いた。その声、

不減聞韶也。

韶(しょう)を聞くにも減ぜず。

「韶」の曲を聞くのと比べても、同じぐらいのすばらしさである。

「韶」は伝説の舜帝の時代の音楽で、すばらしいもの、とされておりました。

「論語」八佾篇に曰く、

子謂韶、尽美矣。又尽善也。謂武、尽美矣。未尽善也。

子、「韶」を謂う「美を尽くせり。また善を尽くす」と。「武」を謂う「美を尽くせり。いまだ善を尽くさず」と。

先生が舜帝の時代の音楽である「韶」について、おっしゃった。

「美しさを窮めているなあ。また、善のこころが窮められているなあ」

周の武王の時代の音楽である「武」について、おっしゃった。

「美しさを窮めているなあ。善のこころは(いいところまで行っているんだけど)窮められてはいないなあ」

と。

しかし今はどちらも伝わっておりません。

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「酔古堂剣掃」巻十二「倩」より。すばらしいなあ。

明日からまたさらに遠いところへ羇旅の客となります。さらに仙界に近いところとなるので、現世の電波は届かず、更新できないだろうと予想されます。

 

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