「うわー、でかいオバケだなあ、と思って好奇心が湧いたが、ただの巨大化した雪だるまが歩いていただけだぜ」
韓国政府がすごい動きをしているので「なんなのだ、このひとたちは」とすごい好奇心が湧いてくるほどです。よし、週末なので好奇心が満たされるような本を読んでみよう。
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清の時代のことですが、
向聞塞外有紅柳。以為閩中朱竹之類。
向(さき)に聞く、塞外には紅柳有り、と。以為(おもえ)らく閩中の朱竹の類ならん。
以前から、玉門関より向こうの西域には、「ベニヤナギ」という木がある、と聞いていた。おそらく福建の「あかだけ」のようなものであろうかと考えていたところである。
紀暁嵐先生が烏魯木斉(うるむち)に左遷されていたことがあるので、先生に訊いてみたところ、
似柳而非、特皮膚微赤耳。其大者作器。
柳に似て非、特に皮膚微赤なるのみ。その大なるものは器と作(な)る。
「ヤナギに似ているといえば似ているのじゃが、違う植物じゃな。その樹皮が少し赤いのが特徴といえば特徴で、大きく育ったら木器を作る材料になるぞ」
とのことであった。
まあそういう植物ぐらいあるでしょう。ナツメヤシかなんかのことではないでしょうか。
しかし、次のモノ、すなわち「紅柳娃」(こうりゅうあい)は何なのであろうか。
紅柳娃産塞外山中、乃焦僥之民、並非山獣。色沢膚理明秀端正、如三四歳小児。
紅柳娃は塞外の山中に産し、すなわち焦僥(しょうぎょう)の民にして並びに山獣にあらず。色沢膚理は明秀にして端正、三四歳の小児のごとし。
「ベニヤナギちゃん」は西域の山中に産出される「こびと」である。ニンゲンであって、山中のケモノではまったくない。肌の色や湿り気、皮膚のキメなど、白く美しくて、まるで三〜四歳の小児のようなのだ。
「娃」(あい)は「女性の美しさ」をいう形容詞ですが、三四歳の小児のような姿だというので、「〜ちゃん」と訳してみました。
なお、「こびと」についてはここで少しまとめておきましたが、「焦僥」(しょうぎょう)について付け加えておくと、「荀子」に初見し小さいひとの代表とされ、「淮南子」には西南方にいると書かれています。その注によれば「三尺に満たない」そうです。
この「ベニヤナギちゃん」をなぜ「ベニヤナギちゃん」というかと言いますと、
毎折紅柳為圏、載之而舞、其声幼幼。
紅柳を折りて圏を為すごとに、これを載せて舞い、その声は幼幼(ようよう)たり。
上記のベニヤナギの枝を折って、これをまるめてやると、ベニヤナギちゃんはそれを頭に載せて舞踊をする。その際、「やおやお」とはかなく歌うのである。
それでベニヤナギの妖精のようだというので「紅柳娃」(ベニヤナギちゃん)の名で呼ばれるようになったのだ。鳴き声はネコに似ているようですね。
ベニヤナギちゃんは、
或至行帳竊食、為人掩得、輒泣涕拝跪求去。不放之、則不食死。放之、則且行且顧、俟稍遠乃疾馳。
或いは行帳に至りて食を竊まんとして人の掩得するところとなり、すなわち泣涕し拝跪して去らんことを求む。これを放たざればすなわち食らわずして死す。これを放てば、すなわちかつ行きかつ顧み、やや遠ざかるを俟ちてすなわち疾馳すなり。
時に旅人のテントに近づいてきて食糧を盗もうとするのだが、そこでチャイナ人に取っ捕まると、涙を流して土下座して、解放してくれと求めるのである。解放してやらないと、メシを食おうとせず死んでしまう。ホントのハンストをするんです。解放してやると、何度も何度も振り向きながらだんだん離れていき、ある程度離れた、と思うと、すごい勢いで走り去って行ってしまうのだ。
食糧盗みに来たくせに捕まると食わずに死ぬ、というのは如何か、死なずに食えばいいのに、と思いますが、いずれにせよ、
頗不易見、亦無能生畜之者。
すこぶる見やすからず、またよくこれを生畜する者なし。
まずもって出会うことができない生物であり、また、これを生きたまま飼った例がない。
というものなので、その正体はなかなかわからないのでございます。
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清・趙慎畛「楡巣雑識」下より。「三四歳の小児の如し」というのだからふつうに山中民族の三四歳の小児なのではないか、という気がします。そういうコドモがメシをかっぱらいに来たのを捕まえて飼おうとする、というのは、いかにもチャイナびとのやりそうなことに思えて仕方ありませんが、そうでなければ大きさからみてロズウェル型の宇宙人かも知れません。
興趣はまことにつきないところである。