令和元年11月20日(水)  目次へ  前回に戻る

「ぶたとのさま、大福色のお菓子にございます、ぐふふふ」気の利いた雪だるまからの手土産に「山吹色の腹の足しにならないものを持って来るオロカモノがいる中で、役に立つ愛いやつでぶのう、ぶっぶっぶー」と、人材を見出してお喜びのぶたとのである。

プレミア12も神宮球場野球大会も終わりました。今年も160試合越えの野球を観たひとたちがいるようです。がんばったなあ。

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楚の荘王(在位前613〜前591)は狩猟が好きであった。

ある大夫がこれを諫めて曰く、

晋楚敵国也、楚不謀晋、晋必謀楚。今王無乃耽于楽乎。

晋・楚は敵国なり、楚の晋を謀らざるも、晋は必ずや楚を謀らん。今、王、すなわち楽に耽くる無からんや。

「晋国と我が楚国はライバルです。たとえ我が楚国が晋国をどうこうしようと思わなくても、晋国の方は必ず我が楚国を何とかしてやろうと考えているはずです。(ところが王さまの振舞いを見ておりますと、)もしかして王さまは、(晋国との関係への緊張感から逃げ出して、狩猟を)楽しむことに耽溺してしまっておられるのではないでしょうか」

「無乃・・・乎」は、「すなわち・・・する無からんや」と読んで強い反語を表わすんじゃ! と高校時代に学んだみたいで、いま手元の漢和辞典を見ると懐かしい赤い線が引いてある。もう四十年も前の線なので懐かしくて涙が出ますが、閑話休題。

北京大学の程翔先生の注(2009)によれば、「無乃」(むない)は何事かに対する心配と対応を表わす婉曲表現で、現代中国語の「恐怕」に当たる、というので、それを(  )の中に表現してみました。

この諫言を聞いて、荘王は、

「はあ? そんなふうに見えるのか?」

と不快そうに訊いた。

「み、見えます」

荘王はかぶりを振って、答えて言った。

吾猟将以求士。

吾が猟は以て士を求めんとすなり。

「わしが狩猟を好きそうに見えるのは、それによって人材を探そうとしているからだぞ」

「ほ、ほんとですか?」

「ほんとであるぞ。

其榛叢刺虎豹者、吾是以知其勇也。

その榛叢に虎・豹を刺す者は、吾これを以てその勇を知る。

低木の藪や草むらでトラやヒョウを槍や刀で刺して退治する者がいれば、わしはそれによってそいつが勇者であることを知ることができるのだ。

其攫犀搏兕者、吾是以知其勁有力也。

その犀を攫(さら)い兕(じ)を搏つ者は、吾これを以てその勁(つよ)くして力有るを知る。

「犀」はサイのことで、「兕」は一角の水牛のこと、だそうです。

サイをすくい投げにし、水牛をぶん殴る者がいれば、わしはそれによってそいつが強く、力のあるやつであることを知ることができるのだ。

罷田而分所得、吾是以知其仁也。

田を罷めて得るところを分かつに、吾これを以てその仁を知る。

「田」は狩猟こと。

狩りが終わって、獲物を分配するときには、わしはそれによって(その分配の責任者が)気遣いのできるやつかどうかを知ることができるのだ。

因是道也、而得三士焉、楚国以安。

この道に因りてや、三士を得、楚国以て安し。

この方法によって、わしは三種類の人材(勇者、強者、仁者)を得ることができ、楚国を安定させることになるのである」

「なーるほど。さすがは王さまにございます」

さて、ということで、

苟有志則無非事者、此之謂也。

「いやしくも志有れば、事にあらざる無し」とはこの謂いなり。

よく人が言う「もし目指すことがあるならば、どんなことでもそれに役に立たないものはない」というのは、まさにこのことである。

のだそうなんです。

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漢・劉向説苑」巻一・君道篇より。うーん、ためになるなあ。肝冷斎が観タマするのを「ムダなことをしているなあ」と嗤っているひとがいたら、このコトバを教えてあげたいものですね。役に立ちそうにもない行為でも何かの役に立っている・・・カモ知れないのだぞ、と。何の役かわかりませんが。

さらにもう一歩踏み込めば、肝冷斎だって何かの役に立っている、とも言えるカモ知れないのだ。

 

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