令和元年11月10日(日)  目次へ  前回に戻る

ぶたパン屋。疲れることなく、健康そうである。

出張で疲れたなあ。もう年ですよ。

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清の時代、疲れ果てて湖南・桃源の宿駅に着いたことがありました。当時は役人が公務で移動するときには宿駅に泊まれることになっていて、わたしは役人でしたのでそこに宿泊した。

荷をほどくももどかしく、もう眠り込もうと榻に横になったとき、壁に誰かが墨書していった詩があるのに気が付いた。

消しかけた燈火を点け直して読んでみる。

走馬張弓四十年、 馬を走らせ弓を張ること、四十年、

封侯無路且帰田。 封侯に路無し、しばらく帰田せん。

 馬を走らせ、弓を張って戦い、四十年の月日を過ごした。

 侯爵に封じられる(ような出世をする)こともできず、これから田園に帰ろうと思う。

このひとは軍人だったようですが、思うようには出世できず、辞めて帰郷するようです。

この夜更け、

芭蕉夜雨梧桐露、 芭蕉の夜雨、梧桐の露、

注到孫呉第幾篇。 注ぎ到るは孫・呉の第幾篇ぞ。

芭蕉の葉に(はらはらと音を立てて)夜の雨が落ち、梧桐(あおぎり)の葉は(音もなく)露を貯めていて、

(それらの葉から露が)落ち注ぐ(と思うほど濡れている)のは、「孫子」か「呉子」の第何章であろうか・・・。

もう役に立てることもない戦術の教科書を開いている、というのが一つ目のミソで、その本の開いているページが濡れるのだが、それが第何章なのかもうわからないぐらい心が散漫になっている、というのが二つ目のミソ。もちろん、雨が落ちて濡れているのではなくて、自分の涙で濡れているんです。そこに気づかせるのが三つ目のミソ。

燈火を掲げてその詩を読み終え、作者の自署が無いかと探してみたが、

後未題名字、亦不凡之才。

後にいまだ名字を題せざるも、また不凡の才なり。

詩のあとには名前も字も書いてない。しかし、並みの詩才でないことは明らかである。

わたしはまだしばらく旅しなければならないのだが、やがて間もなく彼のように見果てぬ夢を覚ませて、芭蕉の夜雨を聞くことになるのであろう。

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「茶余客話」巻十一より。来週も土日出張なんです。来週泊まったところにこの詩を書きつけてみようかな。と思いましたが怒られるから止めておきます。

 

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