みな有能そうなぶた軍団だ。暴君は賢者を妬み有能な者を怖れるという。これほど怖ろしい軍団があったであろうか。
明日も休みなのでこころが伸びやかである。
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昨日の続きです。「諫」「争」「輔」「弼」の先例を掲げます。
@ 伊尹・・・殷の湯王に仕えて夏の桀王を滅ぼすのを輔佐しましたが、湯王の息子の太甲を諫めた。(太甲を三年間監禁して教育した、という説もあります。)
A 箕子・・・殷の最後の王・紂王に仕え、王の非道を諫めたが、聞かれなかったので、佯り狂って朝を退いた。
B 比干・・・彼も紂王に仕え、王の非道を諫めたが、王は「比干は立派な聖人じゃなあ。聖人の心臓には七つ穴があるというが本当か」と比干を殺してその心臓を取り出したという。
C 伍子胥・・・戦国の時代、呉王夫差に仕え、越王の投降を許さないよう進言したが王はこれに従わず、子胥に刀を賜って自裁せしめた。
D 平原君・・・戦国の時代、趙の公族であった平原君・趙勝は三たび丞相となってその権を振るった。邯鄲の城を秦に囲まれたとき、全権を持って楚や魏の援軍を得て秦軍を破った。
E 信陵君・・・魏の公族であった信陵君・公子無忌は平原君から援軍を求められると、魏公の権限を行使するための符節を盗用して軍を動かして秦軍を破って、趙の独立を守るとともに魏自身の安全を図った。
「荀子」は、@Aは「諫」、BCは「争」、Dは「輔」、Eは「弼」だ、としています。
しかしこれらのひとびとについては、実はその本質は一つなのである。すなわち、
従道不従君。
道に従いて君に従わず。
道理に従ってシゴトをしたのである。それ故、その主君には従わなかったのだ。
というわけで、国に
正義之臣設、則朝廷不頗。
正義の臣設けらるれば、朝廷頗ならず。
正義の臣が地位を与えられていれば、その朝廷は不公平にならない。
諫争輔弼之人信、則君過不遠。
諫争輔弼の人信(の)べらるれば、君が過ちは遠きにあらず。
ここの「信」は「伸」です。
命令に従わずに諫めたり主君に強いてでも正しい方向性を保たせるようなひとが仕事できるような状態なら、主君が間違ったとしてもあまり大きなことになる前に修正されるであろう。
爪牙之士施、則仇讎不作。
爪牙の士施さるれば、仇讎作(おこ)らず。
君主の手先として自分で判断して処断していくような人物が活用されていれば、恨みを持つ者が勢力を持つことはない。
辺境之臣処、則疆陲不喪。
辺境の臣処すれば、疆陲喪なわれず。
中央から離れた辺境の責任者が、自分の判断で処断することができるなら、国境が損なわれることはないだろう。
このゆえに、
明主好同、而闇主好独。明主尚賢使能、而饗其盛、闇主妬賢畏能、而滅其功。
明主は同じきを好み、闇主は独りあるを好む。明主は賢を尚(たっと)び能を使い、その盛んなるを饗(う)くるも、闇主は賢を妬み能を畏れ、その功を滅するなり。
すぐれた君主は判断を多くのひとびとと共有しようとし、ダメな君主は一人で何事も決めようとするのである。すぐれた君主は賢者を尊び、有能な者を活用し、彼らの盛ってくれた成果物を(ごちそうを食べるように)いただくのであるが、ダメ君主は賢者を妬み有能な者を怖れ、彼らの功績を潰してしまうのだ。
その中でも、
罰其忠、賞其賊、夫是之謂至闇。
その忠を罰し、その賊を賞す、それ、これを「至闇」と謂う。
まごころを持って仕事しているやつを罰し、へつらって禄を食んでいるようなやつに褒美を与える、こういうのが「最もダメ」である。
夏の桀王、殷の紂王が滅びたのはこの「至闇」だったからである。
ああ、古来より、
事聖君者、有聴従、無諫争。
聖君に事(つか)うる者は、聴従有りて諫争無し。
最高級の主君にお仕えする者は、言うことはすべて聞いてもらえるので、改めて諫めたり抵抗したりする必要がない。
事中君者、有諫争、無諂諛。
中君に事うる者は、諫争有りて諂諛無し。
普通の主君にお仕えする者は、諫めたり抵抗したりうする必要はありますが、ことさらにおもねりへつらう必要はない。
ところが、
事暴君者、有補削、無撟弼。
暴君に事うる者は、補削有るも、撟弼無し。
身勝手な主君にお仕えする者には、主君の言い出したことを補ったり削ったりすることができるだけで、曲げたわめたり助けて正しくしたりすることはできない。
そんなことをしたらコロされてしまいます。
その主君のもとにいるときには、古代の詩にいうように、
国有大命、不可以告人。防其躬身。
国に大命有らんとき、以て人に告ぐるべからず。その躬身を防がん。
国に大きな改革が起ころうとしているのだ・・・だが、そのことを人に言うな。まずは自分自身を守ろうではないか。
とするしかないでしょう。
なお、この詩は今に伝わる「詩経」の中には入っていません。このように古代のある時点まで伝わっていながら、孔子が編纂した(と伝承される)「詩経」に収められていない詩のことを「逸詩」といいます。というわけでこの詩は逸詩です。
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「荀子」臣道篇第十三より。「荀子」は勉強になるなあ。仕官するなら一度は読んでおかねばなりませんね。仕官しないを選んだひとにも役に立つと思います。世俗とあまり関係のない肝冷斎一族たちにとってさえ、ほんの少しはためになっているようです。