「色合い的には南国的だが、こいつ何ものサア?」「お釜やお櫃ではなさそうでシーサア」
若いころにはいろいろ武勇伝のあるおれだが、今は年老いて、実は「お代わり自由」の店でも「お櫃のお代わり」なんてできないんです。(今はこの程度)
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お釜いっぱいのメシを炊く。炊きあがるとそれをお櫃に移す。お櫃からはみ出て山盛りになったほかほかのメシをにやにやしながら食う。―――ああ、なんとシアワセなことでしょうか。冷えてもうまいぞ!
ところが、
釜鼓満、則人概之。
釜鼓(ふこ)満つれば、すなわち人これを概す。
「概(がい)」は、もともと「押し切り棒」のこと。マスやカマに入った穀物などを「概」でならして、マス一杯やカマ一杯の容量にまとめるもの、またその行為を言います。ここから「一概」「概略」といった意味が出てくるのがわかるでしょう。
←この棒であるのだ。
「釜」(ふ)はもちろん「カマ」ですが、これは煮炊き用の入れ物のことなので、そのまま容器になります。容量の単位にもなって、春秋時代には「一釜」(いちふ)は12リットル強とされていました。「鼓」(こ)もここでは、楽器の太鼓ではなく「鼓」という名の容器です。春秋時代には、20リットル弱の容量を表わす単位としても用いられることがあります。
←これがカマであるのだ。
釜や鼓が(穀物や食料品など何かで)満ち溢れているようなら、ひとは押し切り棒でならすであろう。
山盛りでシアワセに思っていても、あまりにも充足したものは押し切られてしまうのです。
同じように、
人満、則天概之。
人満つれば、すなわち天これを概す。
ニンゲンが(能力や財産や地位やなにやらで)満ち溢れているようなら、天(運命)が押し切り棒でならしてしまうであろう。
いっぱいになっていてはいけないのです。満ちるは欠ける。
故先王不満也。
故に先王は満たざるなり。
だから、古代の偉大な聖王たちは、満ち溢れてしまわないように振る舞ったものだ。
さて、このような知恵に満たされた古代の聖王たちの教えは、木簡に書かれたり青銅器に刻まれたりして現代(←春秋時代のこと)に伝わっている(そのごく一部が「書経」という書物にも遺されて現代(21世紀)にも伝えられていることになっています。後世の偽造も多いのですが)。
先王之書、心之敬執也。
先王の書は心の敬執なり。
そのような古代の聖王たちの遺したコトバは、心に敬いながらいつも握りしめて離さないようにしなければならないものである。
而衆人不知也。
而して衆人は知らざるなり。
ところが、大多数のやつらはそのことを知らない。
故有事事也、毋事亦事也。
故に事有るも事なり、事毋(な)きもまた事なり。
そのために、(大多数のやつらは)何かの事態が起こると何事かをし、何の事態が起こっていないときもまた、何事かをしてしまっている。
しかし、
吾畏事、不欲為事。吾畏言、不欲為言。
吾は事を畏れ、事を為すを欲せず。吾は言を畏れ、言を為すを欲せず。
わたしは何事かをすることがたいへんなことであることを知っているので、何事もしたくはないのだ。わたしは何らかの意志を表明することがたいへんなことであることを知っているので、何の意志も表明したくはないのだ。
故行年六十而老吃也。
故に行年六十にして老吃なり。
それで、わたしもそろそろ六十になりますが、わたしはもう老いてうまく話せなくなってしまっているのだ。
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「管子」巻四・枢言第十二より。腹いっぱいメシを食おう! として、なんと老いてうまく話せなくなった肝冷斎の状況の説明に至りました。いやしかし、肝冷斎は若いころからダメです。他人と議論することができず、言い訳もプレゼンもダメで、「君の言うことは理解できない」「あなたの話聞いていると不安になるの」「もう少し理論的に」「冗漫だ」「短絡だ」「声が小さい」「うるさい!」などの面前と背後の罵倒を経て、このようになってしまったのじゃ。いや、されてしまった、のじゃ。誰もわしのコトバなど聴こうともせぬし、わし自身も疲れた。誰とも語らなくていいところへ去ろう・・・お盆だし・・・。