カッパは、同じ妖怪でありながらあずきあらいくんのシリコダマを狙っていると思われる。妖怪には悪が多いのだ。
また明日出勤とは・・・。
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むかしは、
有徳義未明於朝而処尊位者、則良臣不進。
徳義のいまだ朝に明らかならずして尊位に処る者有れば、すなわち良臣進まざるなり。
徳がある、あるいは義に篤いと朝廷中に認められていない者が尊貴な位についているようでは、賢良なひとはその国で出世することはない(と考えられる)。
有功力未見於国而有重禄者、則労臣不勧。
功力のいまだ国に見(あら)われずして重禄の有る者有れば、すなわち労臣勧められざるなり。
功績や労力が国民に知られていない者が大きな俸禄を受けているようでは、功労あるひとはその国で評価されることがない(と考えられる)。
有臨事不信於民而任大官者、則材臣不用。
事に臨んで民に信ぜられずして大官に任ぜらるる者有れば、すなわち材臣用いられざるなり。
仕事について国民に信頼されていない者が大きな権限を与えられているようでは、才能あるひとはその国で重用されることがない(と考えられる)。
ので、そういう国には「人材」が集まってこなかったのだそうでございます。
これは「三本」(三つの根本)が成っていないからです。
「三本」とは何ぞや。
徳不当其位、功不当其録、能不当其官。
徳その位に当たらざるか、功その録に当たらざるか、能その官に当たらざるか。
その地位に適切な徳があるかどうか、その俸禄に適切な功労があるかどうか、その権限に適切な能力があるかどうか。
の三つの「評価基準」のことである。この三つの評価基準が整っていないと、
邪臣上通。
邪臣上通す。
邪悪な臣下が君主と心を通じ合う。
という、たいへんなことになってしまいます。
一方、もし「三本」(評価基準)が整っていれば、
便辟無威於国、道途無行禽、疏遠無蔽獄、孤寡無隠治、故曰、刑省治寡、朝不合衆。
便辟(べんぺき)国に威無く、道途に行禽無く、疏遠に蔽獄無く、孤寡に隠治無く、故に曰く、刑省かれ治寡く、朝に衆を合せず、と。
諂うのが上手な者がその国で威張り散らすことはなく、街道を行くドウブツはいなくなり、主権者の知らないところで刑事裁判が行われることが無く、孤児や寡婦の存在が主権者に隠されることも無くなり、「刑罰はあまり行われず、行政のやることは少なくなり、毎朝の朝廷(朝の会議)に集める人間の数が減る」と言われる状態になるのである。
主権を持つ者が臣下を適切に評価しさえすれば、世の中は驚くほどうまく治まっていくものらしい。
なお、「行禽無く」を「(商業も盛んになり人間の往来が多いので、道を)行くドウブツはいなくなり・・・」と文字通りに訳してみましたが、道にドウブツがいたっていいじゃないか、と考えたひともいて、通説では「(郷里を離れて旅する者にはならず者が多いのが普通だが)旅する者にドウブツ(のようなならず者)はいなくなり・・・」と解しているようです。でもドウブツにも「〇―〇―ラビット」や「〇ティちゃん」や「ごんぎつね」のようないいヤツもいるので、通説は採らなかったのですが、むかしはいいドウブツがいなかったのかも知れません。
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「管子」巻一・立政第四より。「良臣」「労臣」「材臣」「邪臣」というのがいるみたいです。しかし、全体の七割ぐらいは普通の「凡臣」だったんではないかなあ、とも思います。