令和元年6月3日(月)  目次へ  前回に戻る

「雁に薄にぶたとの」の図。なんでこの季節にススキだ?と疑問でしょうが、今肝冷斎グループ(KRS)ではシゴト上花札の絵柄の研究をしているので、その副産物として描かれたものだ。倫理性はない。

めんどうくさい議論を省いて、説教のところだけ説く。

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「周易」(易経)を読むと、象数がどうとか占断がどうとか解釈がどうとかいろいろ言わなければならなくなってくるので、なかなか扱えないのですが、今日はもう他のことは抜きにして、「義理易」(易の文章を解釈して道徳的な方針を読み取ろうとする「易」の使い方)の代表作である宋・程伊川の注で、大象(易の漢代以前の注釈である「象伝」のうち、384の各爻を説明する小象に対して、64の各卦を説明するもの)を一つ読んで、

―――「義理易」というものはこういうものか

とご認識いただいて、寝ようと思います。明日も平日なんで早く寝ないといけないんです。

「蹇卦」大象に曰く、

山上有水、蹇。君子以反身修徳。

山上に水有るは、蹇なり。君子は以て身に反(かえ)し徳を修む。

山の上にさらに水がある、という卦が、「蹇」(けん。「行き悩む」)と名づけられる。この卦に出会ったとき、あなたは自分自身に反省し、徳を修めることを考えなければならない。

蹇卦大象はこの一行だけです。

山の上に水有る、というのは、蹇の卦が上に「☵」下が「☶」の形になっており、上の「☵」(坎)は「穴」とか「水」を表す卦であり、下の「☶」(昆)は「山」とか「止まる」を表す卦なので、それをそのまま象形として読み取っているだけですが、それが何故自分自身に反省しなければならないことになるのか、を「義理易」の考え方で解説してもらいます。

程伊川(「程氏易伝」)曰く、

山之峻阻、上復有水。坎水為険陥之象、上下険阻、故爲蹇也。

山の峻阻なる、上にまた水有り。坎水は険陥の象たれば、上下険阻、故に蹇と為すなり。

山は険しくて交通を阻んでいるものだが、その上にまた水が有る、というのである。「坎」の水は、険しく落ち込んでいる、という姿であるから、上も下も険阻であるので、「蹇」(けん)すなわち「行きなやむ」ということになるわけだ。

君子観蹇難之象、而以反身修徳。君子之遇艱阻、必反求諸己而益自修。

君子の蹇難の象を観るに、以て身に反し徳を修む。君子の艱阻に遇(あ)う、必ずこれを己に反(かえ)し求めて、ますます自修すなり。

行きなやみ困難な様子を見れば、自分を反省して徳目を修めなければならない。(君らが求める)理想的人格のひとは、苦しく険阻な状況に遭遇すれば、必ずそのことを自分に問題があるのではないかと反省し、ますます自分で修行するものなのである(から、その真似をしよう)。

「反求諸己」(これを己に反(かえ)し求む)の「諸」(しょ)は「もろもろ」という本来の意味ではなくて、「之於」(し・お)(これを・・・に)の短縮助字です。古代の発音がこうなっていたんだ、と思うと感動しますね。

孟子曰、行有不得者、皆反求諸己。

孟子曰く、行いて得ざるもの有れば、みなこれを己れに反求せよ、と。

孟子もおっしゃっているじゃありませんか。

「やってみてうまく行かないことがあったら、とにかくまずは自分に問題があったのではないかと反省して原因究明する必要がある」

と。

これは「孟子」「離婁(りろう)章句上」にあるコトバです。孟子本人の口癖のようなコトバで、例えば弓矢の競技で失敗したとき「反ってこれを己に求めよ」と言っています。たいへん美しいコトバなので、わしも若いころこれに入れあげて、シゴトの失敗、ニンゲン関係のもつれ、体重の増加など、とにかく毎日起こるイヤなことは全部自分のどこかが悪いのだ、と思って反省し(てみようとし)た時期があるのですが、どんどん鬱鬱としてくるので、止めた方がいいと思います・・・が、同じようなことをやってしまっている若いモノは必ずいるだろうなあ。時間が解決することが多いので、自暴自棄(←これも孟子のコトバですよ)にならなければそのうち何とかなるので、耐えてください。

わしの若いころのメモだと「「礼記」にも同じ語あり」と書いてあるが、今晩はめんどくさいのでそこまでは調べません。

・・・というふうに孟子も言っているのです。

故遇艱蹇、必自省於身、有失而致之乎、是反身也。有所未善而改之。無歉於心則加勉、乃自修其徳也。

故に艱蹇に遇えば、必ず自ら身に失有りてこれを致すやを省みる、これ「反身」なり。いまだ善ならざるところ有ればこれを改む。心に歉(あきた)るなきこと無くんばすなわち加勉す、すなわち自らその徳を修むるなり。

ゆえに、くるしいこと、行きなやむことに会えば、必ず自分のどこかにいけないところがあってこんなことになっているのではないかと反省する。これが「身に反(かえ)す」ということである。まだダメだったというところが発見されれば、これを改めねばならない。(反省しても)心に不満足なことが無いならば、さらに一層、勉め励むことだ。これが自らその徳を修める、ということなのである。

ああ、このようにして、

君子修徳以俟時而已。

君子は徳を修めて、以て時を俟つのみ。

徳を修めて、そしてそれが必要とされる時を待つ。

それがあなたたちの為すべきことなのだ。(どーん!)

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程伊川先生「程氏易伝」(「伊川易伝」)は全篇この調子でカッコいいんです。こんなの読んで「ああこうしなければ・・・。こうしているオレ、カッコいい」となって昔のひとは過剰倫理依存症みたいになっていったんですなあ。そして外部に対して攻撃的になったりして迷惑な人になってしまったのでしょう。それはそれで気をつけねばなりませんが、倫理が無いくせに攻撃的なやつよりは少しはマシかも。

ちょっと待てとかそうでないとか言いたい人もいるでしょう(いるはずないか)けど、もうすごい夜中なんでもう寝ないとならんのでもう今日はおしまい!

 

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