令和元年5月19日(日)  目次へ  前回に戻る

北海道十勝平野で十勝小豆を洗いに行ったアズキアライくんだが、初夏ともなるとコロポックルたちがどんどん獰猛になってくる。ちくちくと刺されて居眠りもしづらい状態である。

なんと! さっき金曜日の夜だと思っていたのに、もう日曜日の夜とは。明日への不安の中、今夜はぐっすり眠れるのだろうか。

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清の康熙年間、満州富察族出身の貴族・富寧安(ふねいあん)という方がおられた。父親は大学士・阿蘭泰という方なんですが、彼は最初武官の道を進み、康熙帝の侍衛(近衛師団)から身を起こした。判断力にすぐれ、人格的包容力もあり、しかもたいへん清廉潔白な人物だということで、まことに異例の人事ながら武官から吏部尚書(文官の人事長官)に抜擢されたほどのひとである。その後、康熙五十四年(1715)から、本来の武官として、西域での作戦に総司令官として出征した。

在疆場逾十年、使策妄帰誠、西蔵底定。繕城垣、治甲兵、以固哈密、厥功甚偉。

疆場に在ること十年を逾え、策妄を帰誠せしめて、西蔵を底定す。城垣を繕いて甲兵を治め、以て哈密を固くし、その功甚だ偉なり。

戦場にあること十年以上、この間、策妄族たちを降伏させ、チベットの領有を確定させた。城塞を修復し武器防具を揃え、これらによってハミール防備を完成させた功績はたいへん偉大である。

とされるのですが、具体的に追っかけると、

康熙54年(1715) 策妄阿拉布担族が反乱を起こし、哈密(ハミール)に侵入したのに際し、康熙帝の命を受けて青海西寧に進軍、反乱軍を追って粛州に駐屯する。

康熙56年(1717) 靖逆将軍に任命され、巴里坤から出兵。烏魯木斉に進駐した。

康熙59年(1720) 反乱軍を追って吐魯番進撃。

康熙61年(1722) 吐魯番に築城。

雍正元年(1723) 巴里坤駐屯のまま武英殿大学士に任命

雍正四年(1726) 北京凱旋、世襲一等侯を授爵。西安駐箚を命ぜらる。

雍正六年(1728) 事に連座して奪爵、逝去。文恭公を諡名され、賢良祠(大きな功績があって、かつ人格も立派だった大臣を祀る廟)に合祀さる。

という大活躍をされました。いわゆる「出入将相」(国外に将軍として派遣され、国内に戻れば大臣として国政を掌る)の経歴で、才徳具わった名臣として今に至るまで敬愛されている方であられ、「清史稿」巻二百五十に伝がございます。

その方は、

其身材偉壮、勇冠百僚。

その身材偉壮にして、勇は百僚に冠せり。

その体もでかくて立派で、勇気は当時の官僚たちの中でもずば抜けておられた。

太っていたようです。そして、

毎夜眠、呼吸如雷。

毎夜眠るに、呼吸雷の如し。

毎晩眠ると、その呼吸はカミナリのようなイビキとなるのであった。

これは睡眠時無呼吸症候群であったと考えられます。

常令僕数人震擾之、使不得熟寝、不然則気厥。

常に僕数人をしてこれを震擾せしめて、熟寝を得ざらしむ、然らざればすなわち気厥(けつ)するなり。

いつも眠っているときは、おつきの者数人に命じて、自分を揺り動かさせていた。こうすることによって、熟睡しないようにしていたのである。そうしていないと呼吸が止まってしまうからだ。

とかなり重症であったようだ。

とはいえ、

誠異人也。

誠に異人なり。

ほんとにすごい人でした。

ほんとに、これだけの功績を遺した人格良好のキレ者です。睡眠時無呼吸症候群で無ければ、史上まれに見るようなすごいキレ者になったカモ・・・、と思いましたが、よく考えるとこれだけのひとでも最後は事件に連座して、爵位だけは奪われてしまっているんですから、そんなすごいキレ者だったらもっと早くつぶされていたでしょう。これぐらいのキレ者でちょうどよかったのカモ知れません。

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「楡巣雑識」巻下より。昨日はお見舞いの用があって出かけておりましたが、一泊だけだから大丈夫だろうと睡眠時無呼吸症候群の治療機材を持たずに行ったんです。そうしたら睡眠がうまくできず、今日の昼間は眠くて何度も意識が切れました。おいらも睡眠時無呼吸症候群で無ければ、もう少しは若いころはキレたかも知れませんが、これぐらいでよかったのカモ。それにしても車で行かなくてよかった。

 

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