令和元年5月17日(金)  目次へ  前回に戻る

たとえ大食いでなくてもパンの中に生ずれば大パン食らいになるであろう。それがぶた天使であれば、信者の救済よりパンを優先しても仕方あるまい。

金曜日だ。山中は今日も静かであった。

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1.南方有鳥焉。名曰蒙鳩。

南方に鳥有りぬ。名づけて蒙鳩(もうきゅう)という。

南の国にある種の鳥が棲息している。「蒙鳩」と名づけられている。

「蒙鳩」はミソサザイのことならん、と注にありますが、そういう細かいことは気にせずに進みましょう。

この鳥は、

以羽為巣、而編之以髪、繋之葦苕。

羽を以て巣を為し、これを編むに髪を以てし、これを葦の苕に繫ぐ。

「苕」(ちょう)は葦やイネなどの穂先をいいます。

羽毛を使って巣をつくる。それをドウブツの髪の毛を使って縫い合わせて丈夫に作るのだが、それをアシの穂先の上に巣を懸けるのである。

そこにタマゴを産み付け、それが孵ってヒナになるのだが、穂先に懸けてあるだけなので非常に安定が悪い。ゆらゆら。

あっ。(ぽとん)

風至苕折、卵破子死。

風至りて苕折れて、卵破れ子死せり。

ちょっと風が吹いてきただけで、穂先が折れてしまい、巣が落ちて、タマゴは割れ、ヒナは死んでしまった。

ああ。

巣非不完也、所繋者然也。

巣の完からざるにあらざるなり、繋ぐところのもの然るなり。

巣の製作が不完全だったのではないのだ。それを懸けた場所がそういう場所だったのだ。

それからまた、

2.西方有木焉。名曰射干。

西方に木有りぬ。名づけて射干(しゃかん)と曰う。

西の果てにある種の木が生育している。「射干」と名づけてられている。

この木は、

茎長四寸、生於高山之上、而臨百仭之淵。

茎の長さ四寸、高山の上に生じ、百仭の淵に臨めり。

茎の長さは10センチも無い(戦国期の一寸≒2.25センチで計算)のだが、高い山の上に生じるものだから、約180メートル(一仭=八尺≒1.8メートルで計算)もの断崖絶壁の上から枝を覗かせている。

木茎非能長也、所立者然也。

木の茎のよく長きにあらず、立つところのもの然るなり。

その木の茎が長いわけではないのだ。その植生している場所がそういう場所だったのだ。

3.ヨモギはぐしゃぐしゃと生える草ですが、

蓬生麻中、不扶而直。

蓬、麻中に生ずれば、扶けずして直し。

そのヨモギも、真直ぐに延びるアサの中に芽吹くと、何かに支えられなくても、(日光を受けるため空を目指して)真直ぐに成長するものだ。

4.蘭槐之根是為芷。

蘭槐の根、これを芷(し)と為す。

蘭の球根の部分を「芷」という。

「芷」は「かおりぐさ」で、においぶくろのようにこれを身に着けて、香水代わりにするものです。

しかし、

其漸之滫、君子不近、庶人不服。

それ、これを「滫」(しゅう)に漸(ひた)せば、君子は近づかず、庶人も服さず。

それであっても、この「芷」を小便に漬しておけば、上等なひとは近づこうともしないだろうし、一般人も身に付けようとは思わないだろう。

其質非不美也、所漸者然也。

その質の美ならざるにあらざるなり、漸すところのもの然るなり。

その本質がきたならしいというわけではないのだが、漬すものがそういうものだからなのだ。

・・・・というわけで、

君子居必択郷、遊必就士。

君子は居るに必ず郷を択び、遊ぶに必ず士に就(つ)くなり。

上等なひとは、必ず住むには風俗の善いところを択び、遊学する際には善きひととともにするのである。

学問や教育などの努力によって立派になれるのだ、ならねばならんのだ、ということが言いたいみたいです。

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「荀子」巻一「勧学篇」より。山中の静かな環境の中で読書も進み、やっと「国語」を読み終わりました。二月から読んでいたのでちょうど三か月かかりました。今日からはもしかしたら見過ごしてきた真理に出会えるカモ、という希望も新たに、「荀子」を読み始めましたのじゃ。上記1〜4どれもいい譬えなのですが、よく考えると1みたいな鳥がホントにいるのかなあ、2はありそうだがそれは高山植物だから、というだけのことですよね、3は本当にそうなるのかどうか、4はバレなくてしかもタダにしてやったら、君子も庶人も「いいかおりがしますなあ、普段のよりも奥深い香じゃ」と言って持ち帰っていくのではないか、という気もして、一度観察や社会実験してみたいところです。岡本全勝さんに借りた「現代経済学」(滝沢弘和 2018.8 中公新書2501)を山中で読んで「実験経済学」とか「ゲームの理論」とか名前だけ覚えましたんやでー。

 

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