巨大パンと普通パン、どちらがより早く地上に落ちるのか。ブタトンとモグラテスは高度な議論の末、実験を行うこととした。
ああ、だが、なんということであろうか、腹が減ってしまい、実験の前に二つとも食べられてしまうとは。真理への道はかくのごとく遠いのである。
今日はNPB開幕の記念すべき日ですが、歓送迎の宴があったのでそちらに出席。腹いっぱい食うのも大人気ない?ので、腹八分で洞穴に帰ってきたら、腹減ってきた。
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春秋の時代、晋の献公(在位前676〜前651)は、陝西の蛮族である驪戎を討伐しようと考えた。
史蘇占之、曰勝而不吉。
史蘇これを占いて曰く、勝ちて吉ならず、と。
史官の蘇が亀の甲羅を炙って占い、申し上げた。「勝ちますが、よくないことが起こりましょう」
献公は問うた。
「どういうことじゃ?」
史蘇は甲羅の割れ方について、専門的なんで省略しますが、いろいろ説明しまして、
交勝也。臣故云。且懼有口懏民、国移心焉。
こもごもに勝つなり。臣故に云う。かつ、口有りて民を懏(はな)ち、国の心を移すを懼る。
「・・・というわけで、この割れ方は、幾度も勝つことを現わします。それゆえにわたしはそう申し上げたのです。一方、「口」の形があり、(讒言が)人民を離反させ、国への思いを変化させる恐れがあるのです」
献公は腑に落ちないという様子で、
何口之有。口在寡人、寡人弗受、誰敢興之。
何の口かこれ有らんや。口は寡人に在り、寡人受けざれば、誰かあえてこれを興さん。
「寡人」(かじん)は諸侯の自称。
「どういう讒言があるのだ? 讒言によって判断を過つかどうかはわしの問題だぞ。わしが讒言を受け容れなければ、誰にも讒言なんかできっこないではないか」
「いやいや」
史蘇は申し上げた。
苟可以懏、其入也必甘。受逞而不知、胡可壅也。
いやしくも以て懏(はな)つべくんば、その入るや必ず甘し。逞(ここちよ)きを受けて知らず、なんぞ壅(ふさ)ぐべけんや。
「かりに人民を離反させるような讒言だとすれば、必ず殿のお耳には甘いコトバとなって入ってくるでありましょう。キモチよくなるようなコトバを聞いて、しかも讒言だと気づかないのです。どうして防ぐことができましょうか」
「ふん」
献公は諫言をお聞き入れにならず、驪戎への戦争を開始いたしました。
結果は大勝利で、驪戎の首長を屈服させ、その娘である驪姫(りき)を獲て帰国した。エキゾチックな魅力にあふれた女性だったのでしょう、献公は驪姫を寵愛し、正后が亡くなっていたので、驪姫を夫人に立てたのであった。
勝利の宴席において、献公は宴席を司る臣に向かって言った。
実爵与史蘇、飲而無肴。
爵を実たして史蘇に与え、飲ましめて肴を無からしめよ。
「さかずきに酒を入れて、史蘇に与えてやれ。酒は飲ませてもよいが、つまみの料理は出すな」
そして、史蘇に向かって言った、
女曰勝而不吉。故賞女爵、罰女以無肴。克国得妃、其有吉孰大焉。
女(なんじ)「勝ちて吉ならず」と曰えり。故になんじを賞するに爵を以てし、なんじを罰するに肴無きを以てす。国に克ちて妃を得たり、その吉有ることいずれか大なる。
「おまえはこの戦いについて「勝ちますがよくないことが起こりましょう」と言った。戦いに勝ったのであるから、おまえにほうびとしてさかずき一杯の酒を与える。ただし、処罰として料理無しじゃ。驪の国に勝って、そこから妃となるべき女を連れて来れたのだ。こんなよいことがほかにあろうか」
史蘇は
卒爵、再拝稽首曰、兆有之、臣不敢蔽。蔽兆之紀、失臣之官、有二辜焉、何以事君。大罰将及、不唯無肴。
爵を卒(お)え、再拝稽首して曰く、兆しこれ有り、臣あえて蔽わず。兆しの紀を蔽わば、臣の官を失い、二辜有りて何を以て君に事(つか)えん。大罰まさに及ばんとすし、ただに肴無きのみならず。
さかずきを飲み干して、それから公に対して二回拝礼し、頭を垂れて、言った。
「しるしが出ましたから、わたしはそのことを隠そうとしなかったのです。もししるしの予言を隠したならば、わたしは役目を果たさなかった(という倫理的な罪)だけでなく、職務怠慢でクビにな(るという実害のある罰もくら)ってしまうことでございましょう。二つも罪を作ってしまって、どうやって殿にお仕えし続けることができましょうか。そういう重い罰が下される状態だったのですから、料理を食わせてもらえないぐらいなんということもございませぬ」
そして、
臣之不信、国之福也、何敢憚罰。
臣の信じられざる、国の福なり、何ぞあえて罰を憚らん。
「わたしの占いが当たらないのであれば、国としては幸福なことになるわけです。どうしてこの程度の罰を受けることをいやがりましょうか」
と言いまして、
飲酒出。
飲酒しで出づ。
酒だけ飲むと、退出してしまった。
主君の宴席を早々と退出するのはたいへん失礼なことです。そのことから史蘇がよっぽど腹が減っていたことが、わかるのである。
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「国語」晋語一より。その後、驪姫が、自分の子を太子に立てようとして、献公の他の息子たちを次々と讒言によって殺し、晋国が大いに乱れたのは、「春秋左氏伝」僖公四年(前656)以降をお読みください。どういうふうに人を陥しいれればいいか、ノウハウを学ぶことができる・・・カモ知れません。