「春先でピヨ」「暖かくなってきたでピヨ」「ひよこには花粉の影響はないでピヨ」と我が物顔のひよこたちである。
洞穴の中は暖かいなあ。今日は外の世界も暖かかったみたいですけど。
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紀元前601年のこと、周の定王(前606〜前586)は、大夫の単襄公朝(ぜん・じょうこう・ちょう)に命じて、宋の国を経て陳の国に使いさせた。
単公が陳の国に入ったところ、
火朝覿矣、道茀不可行矣。
火(か)、朝覿(み)ゆるに、道茀(しげ)りて行くべからず。
「火」(か)は、星の名で、今でいうさそり座のアンタレスです。この星が夜明けに東に見えるのは、夏の時代の暦(今いう「旧暦」とだいたい同じ)で十月、冬の初めの
ころ。
アンタレスが夜明けに見える冬の初めの季節というのに、道には草が茂って進行が困難であった。
「むむむ・・・」
さらには、
侯不在疆、司空不視途、沢不陂、川不梁、野有庾積、場功未畢、道無列樹、墾田若蓻。
侯は疆あらず、司空は途を視ず、沢には陂あらず、川には梁あらず、野に庾積(ゆし)有りて、場功いまだ畢(お)えず、道に列樹無く、墾田蓻(う)うるがごとし。
国境には、賓客を出迎える係の「侯官」はまだ来ていなかった。
賓客の通る道路の修復を所管する「司空」は道路の視察をしていなかった(らしく、道路は荒れ果てたままであった)。
湿地には堤防が無く、
川に橋が掛けられていなかった。
野には、もう初冬というのに、刈り入れられた穀物が野積みにされたままで、
畠の仕事はまだ終わっていない。
道の両側に並木が無く、
耕されている田も、まるで開墾されたばかりのように苗が少ししか植えられていなかったのだ。
「むむむむむ・・・」
荒れた道を進んで、最初の宿場に到着しました。ところがその宿場では、
膳宰不致餼、司里不授館。
膳宰餼を致さず、司里館を授けず。
食事係の「膳宰」は、賓客に出すはずの屠殺したばかりの生肉である「餼」(き)を持って来ない。
宿場の長である「司里」は宿泊する旅館を割り振りしてくれない。
さらに進んで行くと、
国無寄寓、県無施舎。
国に寄寓無く、県に施舎無し。
城壁のある町に着いても泊まるべきところが無かったり、
六十六里(約26キロメートル)ごとにある地方都市に着いても宿場が無かったりした。
「むむむむむむむむむ・・・」
特に食い物の怨みはマズいですよ。
ある村で出迎えてくれた長老に、
「それにしてもどうして田野に働く人民の姿が少なく、多くの仕事を残したままなのか」
と問うと、
民将築台于夏氏。
民、まさに夏氏に台を築かんとす。
「人民はみんな、夏さまの領地に徴発されて、遊覧用の展望台の建築に従事させられているのでございます」
とのこと。人民を労働に徴発するのは農業の務めを邪魔しない冬場に行うことというのが鉄則であるが、農作業が終了するのを待ち切れずに、徴発されて行ったのだ。それにしても「夏氏」とは何者か。
陳の都に着いたが、宿泊施設に泊めおかれ、陳公の出迎えは無かった。
「陳公はどうしておられるのかな?」
陳霊公与公寧儀行父、南冠以如夏氏、留賓弗見。
陳霊公は公寧・儀行父と、南冠して以て夏氏に如(ゆ)き、留賓見(あ)わざるなり。
陳霊公は、公寧と儀行父(ぎこうほ)という仲間連れとともに、南の楚の国ふうの冠をつけて、愛人の夏氏のところに入り浸っており、国賓をそのまま留めて面会しなかったのである。
「なるほどなあ」
単公は頷き、周に戻りますと、王に報告した。
陳侯不有大咎、国必亡。
陳侯、大咎有らざれば、国必ず亡びん。
「陳の殿様は、(もうすぐお亡くなりになるでしょう。もし)ご自身がお亡くなりにならなければ、お国が間もなく滅亡いたしましょう」
と。
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「国語」巻二・周語中より。春秋時代の王使を迎える際の出迎え方がうかがわれて勉強になります。もし上司やクライアントから「今が春秋時代だとして、賓客を迎えるときはどうすればいいのか?」と訊かれたら、この記述をもとに答えられますよ。
なお、このあと、翌々年(前599年)に陳の国では夏徴舒の乱が起こって陳公が弑され、さらに翌年には楚王に占領されるという事態に至りました。建築のために徴発されるのイヤなので、やっぱり洞穴の中にいて、徴発される前の農作業さえせずに隠れているのがいいですね。国が亡びるのは困るのだが。