平成31年3月9日(土)  目次へ  前回に戻る

かつて本土で「あずきあらいましょっか、ひと取ってくいましょっか」とぶいぶい言わせたアズキアライくんだが、沖縄では初心に戻ってまず挨拶回りからである。

本日の昼間は暖かかったが、夜になるとまた寒くなってきたので、味噌かき鍋焼ききしめんというちょっと高いの食べて、すぐ洞穴に引っ込んでゴロゴロしています。

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儒生之未達也、莫不以爲詩書可法象、仁義在必行。欽古人丁寧垂戒之明、悼当世之往往易畔。

儒生のいまだ達せざるや、以て詩書を法象とすべく、仁義必ず行うに在りと為さざるなし。古人の丁寧垂戒の明を欽(つつ)しみ、当世の往往畔(そむ)きやすきを悼む。

(科挙試験を受けるため)儒学の勉強をしている貧しい若者たちは、詩経や書経に出てくる古代の純粋な精神をモットーとし、仁と義の道徳は必ず行わなければならないとみんな思っている。いにしえの賢者らが反覆して教えを垂れてくれた明らかな指針を護り、現代のひとびとがそこから離れていきやすいのを悲しんだりしているのである。

ところがこのひとらが、

及一旦有位情不分者鮮矣。尊官厚録以酔其心、日既遠而遂忘。

一旦有位に及ぶや情の分ぜざる者、鮮(すく)ないかな。尊官・厚録は以てその心を酔わしめ、日既に遠くして遂に忘るなり。

ある日官職に就くや、それまでのキモチと違って来ない者は、少ないのだ。高い官職と手厚い俸禄は、彼の心を惑わしてしまい、日が経つにつれて以前のキモチを忘れてしまうのである。

そして言わっしゃいます、

彼以彼而此以此。方其彼、又烏知其為此也。

彼は彼を以てし、此れは此れを以てす。その彼なるに方(あた)りて、またいずくんぞその此れ為るを知らんや。

「あのときはああだったが、いまはこのときだからこうするのだ。あのときには、どうしてこのようになるなどと理解できただろうか」

と。

嗚呼天下毎不済、而欲責斯民之従化、難矣哉。

嗚呼、天下の済(すく)われざるごとに、斯民の従化を責めんとするは、難いかな。

ああ! 政治経済においてうまくいかないことが起こるたびに、この人民たちをさらに善導しようとするのだが、それは困難なことではないだろうか。

初心を忘れてしまったひとたちの言うことなんか、聞いてくれるはずありませんやろ。

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宋・李季可「松窗百説」より。天下のことは知りませんが、確かに歳とると、回転ずしの安いネタを減らして、どうせ枚数少ないんだから、とついつい200円300円の高い皿を取ってしまったりすることがある。初心を忘れてしまっているのかも知れません。

 

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