平成30年11月2日(金)  目次へ  前回に戻る

食欲の秋である。しかしキノコ人間を食べるのはさすがにマズイであろう。

なんとか今週も終わりました。しかし日曜日出勤に・・・。

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いずれのころのことでございましょうか、伽毘羅(かびら)国に梵摩浄徳(ぼんまじょうとく)という長者(富豪)がおりましたそうな。

一日、園樹生大耳、如菌味甚美。

一日、園樹に大耳を生ずるに、菌の如くして味甚だ美なり。

ある日、長者の家の庭の木に、大きなキノコが生えていました。普通のキノコに見えるんですが、食べてみるとやたらに美味い。

「これは美味いぞ。むしゃむしゃ」

「まったくですね、父さん。むしゃむしゃ」

唯長者与第二子羅睺羅多、取而食之。取已随長、尽而復生。

ただ長者と第二子・羅睺羅多(ラゴラータ)、取りてこれを食らう。取ればすでに随いて長じ、尽きてまた生ず。

長者とその第二子の羅睺羅多(ラゴラータ)だけが、このキノコを取ってむしゃむしゃ食べました。キノコは二人が取っても、取った分がまた伸び、取り尽したと思ったらまた生えてくるのです。

すばらしい。永久機関である。

しかし他のひとは食べませんでした。何故なら、

自余親属、皆不能見。

自余の親属、みな見るあたわざるなり。

ほかの親族や家の子郎党たちには、それが見えなかったからです。

二人は、来る日も来る日もむしゃむしゃとキノコを食べておりました。

すると、一人の坊主がやってきた。

坊主は言った、

「いやあ、食ってますなあ」

「ほう、坊さん、あんたにはこのキノコが見えますのかな」

「見えますよ。それだけでなく、そのキノコが何故生えてきたのかも知っておりますよ」

「なんと。それを教えてくだされ」

そこで坊主が語りはじめましたことには―――

爾家昔曾供養一比丘。

爾の家に、昔かつて一比丘を供養せしならん。

「あなたの家では、以前、一人の出家者をお世話したことがありましたでしょう?」

「ああ、ずいぶん昔ですね。この子もまだ幼かったころじゃ」

彼比丘然道眼未明、以虚霑信施故、報爲木菌。唯爾与子精誠供養得以享之。余即否矣。

彼の比丘、しかりといえども道眼いまだ明らかならず、虚しく信施に霑(うるお)えるを以ての故に、報じて木菌と為れり。ただ爾と子、精誠に供養して以てこれを享くるを得。余は即ち否なり。

「その出家者は、いろいろ世話を受けていたにも関わらず、少しも悟りを開いていないやつだったんです。そのようなダメなやつなのに、あなた方は信仰と布施を捧げ、彼はそれによってずいぶん助けられた。このため、その出家者が生まれ変わって、いまキノコになって恩を返しに来ているんです。そのときは、あなたと、このお子さんだけが真摯にお世話したでしょう? それで、お二人だけがそのキノコの恩返しを受けることができているんですなあ。ほかの人たちはそうでなかったから、キノコが見えないんですよ」

「なんと、そういうことでしたか」

「あと二年間はキノコはどんどん生えてきますよ」

長者はたいへん感激し、坊主に名を問いますと、このひとはおシャカさま以来、第十五番目にその教えを受け継いだという伽那提婆(キャナディーバ)尊者であられたのです。

長者は自分は歳をとって(このとき七十九歳であった)いて修行するのはムリと考え、次男のラゴラータを出家させて、キャナディーバ尊者に弟子入りさせた。

この子が後に、師のあとを継いで、第十六祖となるのでございます。

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「五燈会元」巻第一。この第十六祖が後継者の僧伽難提(サンギャナンディー)を見出す過程は既にご紹介したとおりでございます。なお「五燈会元」によれば、ラゴラータ尊者が亡くなったのは漢・武帝の二十八年(元鼎四年=前113年)のことなんだそうでございます。

さてさて、

不見(見ずや)今日の因縁を。・・・まさに前生の比丘、今日木菌となれり。木菌の時も、我これ比丘となれりとしらず。比丘の時も、我是れ万法とあらはれたりとしらず。

上述の原因とそれによる結果の関係をご覧なされ。・・・前世で出家者であった者が、まさに今日はキノコとなったのである。キノコの今は、自分がかつて出家者だったということなど意識していないであろう。出家者であったときには、自分が(その認識によって)世界のあらゆる存在を出現させているのだ、ということを意識していなかったであろう。

然れば今有情にして少しく覚知あり、いささか痛痒を弁ずといへども、木菌と異なることなし。ゆゑいかんとなれば、木菌の汝をしらざること、あに是れ無明にあらざらんや。汝が木菌をしらざることも、全くもておなじ。

ということですから、おまえさんたちは、今、意識を有するニンゲンとして、少しは知覚もあるであろう、ちょっとは痛いとかかゆいとかも感じることができるといっても、実はキノコと何の違いも無いんじゃ。なぜか。キノコはおまえさんのことを何にも知らない。それは知恵が無いからだ。おまえさんはキノコのことを何にも知らない。まったく同じように知恵の無いオロカ者なんじゃ。

無明を脱して本当に自分がわかったときにもキノコとニンゲンに何の違いも無いことがわかるので、このときもおまえさんとキノコには何の違いも無いんじゃが。

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本朝・瑩山紹瑾「伝光録」より。キノコとニンゲンが同じならキノコ人間は食べてもいいのであろうか、いけないのであろうか。

 

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