平成30年10月30日(火)  目次へ  前回に戻る

世界三大やる気無しドウブツは相変わらずやる気無さそうで、めでたいでぶー。

今日は韓国大法院でデカい判決が出たそうなので、久しぶりで韓国のひとの文章読んでみたいと思います。

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と言いましても貧乏なのであまり韓国の漢文持ってないんで、以前(もう七年も前ですね)ご登場いただいた曹南冥先生にまた登場いただきます。

南冥先生が学生たちに説教なさった。

―――これから君たちと一緒にでかい町の市場に行っ(たつもりになっ)てみよう。

「はあ、行ったつもり、と」「たこ焼きの屋台とかあるかな」「わたしはイカ焼き食いたい」「わいわい」

大市中、金銀瑱玩、靡所不有、尽日上下街衢而談其価。

大市中に、金銀瑱玩(てん・がん)、有らざるところ靡(な)く、尽日街衢を上下してその価を談ず。

巨大市場には、黄金、白銀、耳たま、その他の珍しいものなど、無いものは無い。君たちと一日中、市場をあちらへこちらへと行って、「あれはいくらだろう」とか「これはこれぐらいだろう」とか、その値段について議論しあったとしよう。

ところが、一日中そんなことをしていても、

終非自家家裡物。

ついに自家家裏の物に非ず。

それらは結局、自分のうちのモノになるわけではないのだ。

「そうですね」「それは残念」「腹の足しにならないとは」「わいわい」

―――そんなことをして一日暮らしているぐらいなら、

却不如用我一匹布、買取一尾魚来也。

却って我が一匹の布を用いて、一尾の魚を買取し来たるには如かざるなり。

うちにある数メートルぐらいの布を持って行って、それと交換に一匹の魚を買ってくる方が意義があるではないか。

それは少なくとも、自分のモノになるのだから。

「サカナ、うまいですよね」「わたしは焼いたのがいいな」「イカ焼きもあるといいな」「わいわい」

―――さてさて、

今之学者、高談性理、而無得于己、何異于此。

今の学者、性・理を高談し、しかも己に得ること無きは、何ぞこれに異ならん。

現代(16世紀)の学問をする者は、(宋学の重要概念である)ニンゲンの本性や宇宙の真理について高尚な議論をしているばかりで、自分自身の中に何も得てはいない。これと、市場で値段について議論しあっているのとは、どこが違うであろうか(、いや、違わない)。

「ええー、なんですって?」「たこ焼きの本性とか」「イカ焼きの真理について?」「わいわい」

―――むむむむむ・・・・、うるさーい!!!!! 黙って聞けい!

「うひゃー」「怒った」「怒りましたよー」「わいわい」

―――よいか。

爲学初不出事親、敬兄、悌長、慈幼之間。

学を為すは、初め親に事(つか)え、兄を敬い、長に悌(ゆず)り、幼を慈しむの間を出でず。

学問をする、といっても、まずは親にどのようにお仕えするか、兄をどのように敬うか、先輩方をどのようにたてまつるか、後輩たちをどのようにかわいがるのか、これらのこと以外に為すべきことなどないのだ。

如或不勉于此、而急欲窮探性理之奥、是不于人事上求天理、終無実得于心。宜深戒之。

もしあるいはここに勉めずして、急に性理の奥を窮探せんとするも、これ人事上に天理を求めずんば、ついに心に実得する無きなり。よろしくこれを深く戒むべし。

もしこういったことを勉強せず、すっ飛ばして本性とか真理とかの奥義を窮めようとしても、ニンゲン関係に即して宇宙の真理を探究しないのであれば、最終的に自分の心に実際に得ることはできないのだ。どうかこのことについては、よくよく自分を戒めてほしい。

「はーい」「わがぢまぢだー」「りょうかい」「わいわい」

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「南冥集」より。こんな態度では先生も怒って当たり前カモ知れません。しかし、こうやってがちがちに宋学の理念で若いひとたちを締め付けると、これがふさわしい社会状態の間はいいのですが、経済関係や外交情勢が変化したときに対応できなくなってしまうことになるのではないかなあ・・・。ちなみに、さすがにみなさん漢文で話していたわけではないので、これらは書面で弟子たちに教え諭していたのだろうと思います。また、先生の市場のたとえ話で、布と魚の物々交換になっているのが気になりますね。李朝では近世に至るまで貨幣の流通が遅れた、という歴史的事実がこんなところに垣間見れて興味深い。インタレスティングだぜ!。

 

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