ニュータイプ・コアラと目が合った。彼にも問うてみるがいい、「どうしておまえもまだ荷物をまとめてクニに帰らず、絶望の巷に泣いているのでぶか?」と。
よくあちこちで
「なぜキミは動こうとしないのか。もっと積極的にやらないのか」
と言われますので、答えます。ただしわたしは聞き役で、説明は荘先生にやってもらいます。
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夫、于越之剣者、柙而蔵之、不敢用也。宝之至也。
夫(それ)、于越の剣は、柙(こう)してこれを蔵し、あえてこれを用いざるなり。これを宝とするの至りなり。
「于」(う)は「呉」(ご)のこと。
ああ。呉や越では(名剣が多いが)、剣を箱に入れてしまいこみ、これを使おうとはしない。これこそそれを大切にすることの究極である。
ところで肝冷斎くんは、呉越の宝剣よりも貴重なものがあるのを知っているかな。
―――はあ。知っているような知らないような・・・。
それは「精神」(こころ。意志と霊性)である。
精神四達、並流無所不極。上際於天、下蟠於地、化育万物、不可爲象、其名爲同帝。
精神は四達し、並び流れて極めざるところ無し。上は天に際(いた)り、下は地に蟠り、万物を化育して象と為すべからず、その名、帝と同じと為されん。
精神は四方に行く。どこまでも流れるように行って、行けないところはない。上方は天まで行き、下方は地中に蟠って、あらゆるものを変化させ、生育させる。その姿を想像することもできず、天の主宰者「帝」と同じものと規定するより無い。
―――へー。それはすごいですね。
「純」(生糸のままでほかに混じりけの無い糸のように純粋であること)、「素」(色を染める前の白い糸のようにそのままであること)の力があれば行けるのだよ。
純素之道、唯神是守、守而勿失。与神爲一、一之精通合于天倫。
純素の道は、ただ神のみこれ守り、守りて失うなし。神と一と為り、一の精、通じて天倫に合するなり。
「純粋でそのまま」という行き方は、霊的な力だけがそれをやり通すことができるのであり、やり通して喪失することがいのである。その霊性と一体化した意志は、天に通じてそこにいる仲間と合体するのである。
―――はあ。(このあたりは、神秘的体験が背景にあるのであろう。うんうんと聞いておくしかあるまい。)うんうん、そうですなあ。
野語有之。
野語にこれ有り。
俗にこんなコトバがあるよね。
―――ほう。
衆人重利、廉士重名、賢士尚志、聖人貴精。
衆人は利を重んじ、廉士は名を重んじ、賢士は志を尚(たっと)び、聖人は精を貴ぶ。
「ふつうの人は利益を重視するが、清廉なひとは名声を重視する。賢者は志を達することを貴び、聖人は自分の精神を貴ぶ」
と。
故素也者、謂其無所与雑也。純也者、謂其不虧其神也。能体純素謂之真人。
故に素なるものは、そのともに雑うるところ無きを謂うなり。純なるものは、その神を虧けざるを謂うなり。よく純素を体する、これを真人と謂う。
これによって分かってもらえると思うが、「そのまま」というのは、何かと混ぜあわさって無い、ということを言うのである。「純粋」というのは、その霊性を失ってないことを言うのである。そして、この「そのまま」と「純粋」を体しているものが「まことのひと」なのである。
―――はあ。まことのひと、ですか・・・。
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「荘子」外篇・刻思より。すみません、途中から余計な神秘的な問題になってしまいました。最初の「于越の剣は柙してこれを蔵す」だけで十分だったんです。わしが動かず、シゴトをしようとしないのは、この考え方に基づくのである。我が精神を傷めないためなのじゃ!