めずらしいニュータイプ・コアラだ!「あのぶた、何故まだ荷物をまとめてくにに帰らないのでコア?」と見つめているのかも知れない。
九月九日ですが、肝冷斎は旧暦なんで、今日はまだ重陽節ではないんです。
しかし、関東地方は明日の夜雨が降って、それからはようやく秋になるのだという。この暑い夏をよく夏バテしながら生き抜いたものだなあ、と思うのですが、しかしこの秋は生き抜けるのであろうか。
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その季節なので、有名なお話をします。しかしみなさんの知っている話をすると、すぐ「そこは間違っている」「あーあ、こんな解釈してるのか、キミは」とか指摘したり批判したりしてくるのでしたくないのですが・・・。
西晋の終わりごろ。
永康元年(300)四月、恵帝(在位290〜306)の暗愚に乗じて権勢を揮った賈皇后を恵帝の叔父に当たる趙王・司馬倫が廃位・誅殺した。翌永康二年(301)、趙王倫は恵帝を廃して自ら即位し、改元して建始元年とした―――が、即座に斉王・司馬冏らが挙兵し、たちまち洛陽を占領して恵帝を復位せしめた。斉王は司馬倫を誅殺し、六月には大司馬として九錫を賜う。帝位を譲られうる地位に至ったのである。
さて、このとき斉王を補佐する東曹縁(参謀)であった張翰(字・季鷹)は、多忙な日々を過ごしていた・・・はずなんですが、
見秋風起、因思呉中菰菜羹鱸魚膾。
秋風の起こるを見、因りて呉中の菰菜(こさい)の羹、鱸魚(ろぎょ)の膾を思えり。
ふと秋風が吹き出したのを見ると、郷里の浙江・呉中の「まこもぐさのスープ」と「スズキの刺身」を思い出したらしい。
まわりの同僚に、
人生貴得適意爾。何能羈宦数千里以要名爵。
人生、意に適うを得るを貴ぶのみ。何ぞよく数千里に宦に羈(つな)がれて、以て名爵を要(もと)めんや。
「ひとの生というものは、自分の思うようにできるのが一番じゃないですかね。どうして、数百キロも離れたところで役所のシゴトに縛られながら、くだらん名誉や地位を求めていられるもんですか」
と言い出した。
そして、同僚たちが茫然として見ている間に、
遂命駕便帰。
遂に駕を命じてすなわち帰る。
とうとう馬車の用意を命じて、そのまま帰郷してしまった。
その後、長沙王・司馬乂というひとが自らの王府を開きたいと申請してきたのですが、司馬冏はこれを否定した。司馬乂はこのことを怨んで、もともと趙王派であった河間王・司馬顒と語らい、十二月、司馬冏の罪状を鳴らして洛陽に進軍、司馬冏らを捕らえて、その徒党とともにこれを誅した。誅殺されるもの二千人に及んだという・・・。
以下、建炎四年(316)の西晋滅亡まで混乱が続きます。
というわけで、張翰が帰郷したあと、
俄而斉王敗、時人皆謂爲見機。
にわかにして斉王敗れ、時人みな機を見るを為すと謂えり。
すぐに斉王が失脚して、仲間は皆殺しになったので、当時のひとびとは張翰のことを、「変化のきざしを見抜いたのだ」と評価したのであった。
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「世説新語」識鑑第七より。「機を見た」のではなくて単に嫌気がさしたんではないか、と思うのですが・・・。
さて、この話をはじめて読んでから〇十年、毎年漫然と秋風を感じてきたのでございます。しかしいよいよ今年こそ皆殺しにされてしまうカモ知れませんぞ。