台風、地震と打ち続く脅威に茫然とするドウブツたちの姿だ。
台風が過ぎたかと思ったら、今日未明は北海道で地震。今もまだ崖崩れの救出作業が続いているらしい。
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明初の名官僚で、その有能と誠実を以て、史上屈指に血なまぐさいこの時代に何度も失脚しながら復職し、戸部尚書を通算三十年ぐらい務めた夏原吉は、
徳量閎厚、人莫能及。
徳量閎厚にして、人よく及ぶ莫し。
包容力が広く、厚く、誰も敵わなかった。
と言われる。「徳量」はとりあえず「包容力」と訳しておきますが、要するに人を容れる「器量」のことです。
あるひと、問うて曰く、
量可学乎。
量は学ぶべきか。
「包容力というのは、後天的な努力で具わるものですか」
夏は答えた、
吾少遇犯者、必怒。始忍於色、中忍於心、久之自熟、殊無相校意。是知量可学也。
吾、少(わか)きときは犯者に遇えば、必ず怒れり。始めは色に忍び、中ごろには心に忍び、これを久しくして自ずから熟し、ことに相校意する無し。ここに量の学ぶべきを知れり。
「わしは若いころは、失敗したやつがいると必ず怒ったものである。(しかしそれではいかんと思い、)まずは怒りが顔に出ないようにした。それから次には心の中にも出ないようにした。これを長く続けていたら、だんだんニンゲンが出来てきて、もういろいろああだこうだと考えなくてもよくなってきたんじゃ。これをみれば、包容力というのは努力で具わるものだということがわかるのう」
と。
また、こんなことも言っていた。
処有事当如無事、大事当如小事。如先自張皇、則中無主矣。
有事にはまさに無事の如く、大事にはまさに小事の如くに処せよ。先に自ら張皇するが如きは中に主無きなり。
「張皇」は「ひろげて大きくする」こと。
「事件が起こったら何も起こっていないかのように、大事件が起こったら小さな事件でしかないように、対処しなさい。まずは大げさに考えるのでは、対応する側が主体的に動けなくなるぞ」
なるほどなあ。勉強になります。いつもホウ・レン・ソウするのもめんどくさいしなあ・・・。
ひとびとは宋の名将・韓魏公以来の人物だ、とたたえたものである。
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「焦氏筆乗」続集巻四より。普通のひとはちゃんとホウ・レン・ソウした方がいいと思いますよ。また、災害には、大げさなぐらいに対処しなければならないであろう。