熟せば甘いブドウも、時が来ていなければ酸っぱいのである。たとえ手の届くところにあっても、熟すまで待つのがよいのであろう。ガマンできれば。
いやー、暑いですね。生命の保持がツラいぐらい暑い。わたしは先週末消息を絶った肝冷斎の留守を預かります腹冷斎です。夏場にときどき出現するんですが、今年は腹も冷えませんね。
そういえば、西海に消えた肝冷斎が、身を隠す直前に以下のようなメッセージを遺していったようです。
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・・・みなさん、こんにちは。こんなお話を知っていますか。
昔、孔子の高弟・子貢は一生懸命勉強しておりました。そして、
子貢倦於学。
子貢、学に倦む。
子貢は勉強するのに疲れてしまった。
そこで、孔子に言いました。
願有所息。
願わくば、息(いこ)うところ有らんか。
「先生、わたしはもう休息したいのでございます・・・」
弱音を吐いたんですな。
すると、孔子はおっしゃった。
生無所息。
生、息うところ無し。
「だめじゃ。生きている限り、休息することができないのじゃ」
うひゃあ。
子貢は問うた、
然則賜息無所乎。
しからば賜(し)は息うにところ無きか。
「賜」(し)は子貢の名前です。姓は端木(たんぼく)、子貢はその字。名前の「賜」と字の「貢」で対語になっていますね。
「そうであれば、わたくし賜には、休息するところは無いのですね」
孔子は答えた、
有焉耳。
有るのみ。
「いや、それがあるんじゃなあ」
そして、孔子は、町の裏山を指さして、言った、
望其壙、睾如也、宰如也、墳如也、鬲如也。則知所息矣。
その壙を望めば、睾如(こうじょ)たり、宰如(さいじょ)たり、墳如(ふんじょ)たり、鬲如(れきじょ)たり。すなわち息うところを知らん。
「あそこにある墓を見るがよい。その上には土盛がされ、あるものはふくらみ、あるものは盛られ、あるものはうず高く、あるものは積み上げられているではないか。あそこに休息するところがあるのじゃ」
子貢は言った、
「なるほど。
大哉死乎。君子息焉、小人伏焉。
大なるかな、死や。君子は息い、小人は伏(ふく)せり。
大いなるものですなあ、死というものは。立派なひとはそれによって休息に入り、どうしようもないやつはそれによって必ず屈服させられるのですから」
孔子は言った、
賜、汝知之矣。人胥知生之楽、未知生之苦。知老之憊、未知老之佚。知死之悪、未知死之息也。
賜(し)、汝これを知るや。人は胥(みな)、生の楽しきを知るも、いまだ生の苦しきを知らず。老の憊(つか)るるを知るも、いまだ老の佚(いつ)なるを知らず。死の悪むべきなるを知るも、いまだ死の息いなるを知らざるなり。
「子貢よ、おまえに教えておこう。ひとはみな、生きることが楽しいとばかり思っているが、実は生きることはツラいことなのだ、ということを。老いることは能力が減退していくことだとばかり思っているが、実は老いるということはシゴトをしなくてよくなることなのだ、ということを。そして、死ぬることはイヤなことだとばかり思っているが、実は死ぬることは休息なのだ、ということを」
以上。
わーい、勉強になりましたねー。みなさん、それではさようならー。
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「列子」天瑞篇第一より。キモチよく割り切っていただきました。ショウペンハウエル先生を思い出させる歯切れの良さである。まあこのように古代人が考えたようには、なかなか簡単ではない問題ではありますが。なお、肝冷斎はこのメッセージを遺した後、その行方は杳として知れないのである。