もはや俗世とは関係ないので、ハニワでも作って生きていくことにしました。
やっと水曜日。疲れたなあ・・・と思いましたが、肝冷斎はもはや俗世とは関係ないから曜日なんか気にする必要はないんでした。わはははは。そこで、ほんとは週末にでもゆっくりお話ししたいようなお話を、今日いたしましょう。
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北宋の時代に、金陵(南京)に幸思順という老儒者がいたそうです。
しかし儒者だけでは食っていけませんので、
皇祐中、沽酒江州、人無賢愚、皆喜之。
皇祐中、酒を江州に沽(う)るに、人賢愚無くみなこれを喜ぶ。
酒造りを営み、皇祐年間(1049〜54)に江南の江州まで行商したところ、その土地のひとたちは、賢者も愚者もみな彼の酒を喜んで飲んだ。
このとき、ある役人が江州を舟で通り過ぎようとして、
偶与思順往来相善、思順以酒十壺餉之。
たまたま思順と往来して相善く、思順酒十壺を以てこれに餉す。
たまたまこの幸思順と行き来しあって仲よくなった。思順はその役人が華北に向かうはなむけに、自家製の酒を十壺贈ってくれたのであった。
ところが、この役人の舟は、運河を北上しようとして、当時起こりはじめていた「江賊」(長江や大運河周辺の水上を根城とする盗賊団。梁山泊の山賊たちもこれの一種である)に襲われ、船ごと捕獲されてしまった。
盗賊たちは、役人らを縛り上げておいて、めぼしいモノを探しているうちに十壺の酒を見つけた。
「いいものがあるぞ」
群盗飲此酒。
群盗この酒を飲む。
盗賊どもはこの酒を開けて飲み始めたのだったが・・・。
しばらくして、
驚曰、此幸秀才酒耶。
驚きて曰く、「これ幸秀才の酒ならんか」と。
驚いたように、「これは幸先生のお酒ではないか」と言い出した。
役人は縛られたままで、
僕与幸秀才親旧。
僕、幸秀才と親旧あり。
「わしは幸秀才くんとは古くからの知り合いじゃよ」
と言った。
ほんとは最近の付き合いなのだが、少し誇張して「吹いた」んです。
しかしそれを聞きますと、
「なんと」「なんと」「そうだったのか」
賊相顧嘆曰、吾儕何為劫幸老所親哉。
賊、相顧みて嘆じて曰く、「吾が儕、何すれぞ幸老の親しくするところを劫せんや」と。
賊どもはお互いの顔を見合わせて、ため息まじりに言うには、
「わしらの仲間が、どうして幸じいさんの親しいひとから奪い取ることができようか」
と。
そして、
斂所劫還之、且戒曰、見幸慎勿言。
劫するところを斂(おさ)めてこれに還し、かつ戒めて曰く、「幸に見(あ)うとも慎んで言うことなかれ」と。
奪い取ったものを全部集め直して役人に返して、「幸さんにお会いしても、わしらに襲われたなんと言うんじゃねえぜ」と戒めて去って行った。
ただし、十壺の酒だけは持って行ってしまったそうである。
さて、この幸思順というひと、
年七十二、日行二百里。盛夏暴日中不渇、蓋嘗啖物而不飲水云。
年七十二にして日に二百里を行く。盛夏に日中に暴(さら)さるといえども渇かず、けだしつねに物を啖うも水を飲まざるなり、と云えり。
このころ七十二歳になっていたそうであるが、一日のうちに120キロぐらいは移動することができ、真夏に日に曝されていても少しものどの渇きを訴えなかった。だいたい、いつも、食べ物を食べはするが、水分を飲むということの無いひとだったという。
・・・と蘇東坡が書き残しているのであった。
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明・焦g「焦氏筆乗」続集巻七より。わたくしもせっかく俗世を離れたんだから、賢者にもオロカ者にも喜んでもらえるような何かを作って、誰かに「これは肝冷翁の作ったものではないか」と驚かれてみたいものである。
なお、蘇東坡が書き残していることなのでウソやフェイクがあっても、焦先生のせいではなくて蘇東坡のせいです。