強大なぶたとのの権力と、これに追随するヒヨコたちの力は侮りがたい。・・・かもしれない。
今日は寒かったけど、なんとか終わりました。明日からは暖かくなるといいなあ。人間的にも。
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申屠嘉(しんと・か)は梁のひと、漢の文帝(在位前180〜前157)のときに丞相となったが、景帝の二年(前155)に鼂錯(ちょう・そ)が内史となって帝に用いられるに及んで、
所言不用、疾錯。
言うところ用いられず、錯を疾(にく)む。
自分の進言することが帝に採用されないことが多くなり、鼂錯を憎悪するようになった。
単なる二人の権力争いではなく、背後には中央集権を求める帝権と春秋戦国以来の地方分権を温存したい諸侯王たちとの間の体制をめぐる争いなどいろいろ深い問題があったのでございます。
時に、内史・鼂錯は、
門東出不便、更穿一門南出。
門東より出づるに便ならず、さらに一門を穿ちて南出せんとす。
宮廷の東門から出入りしていると皇帝のもとに参上するのに不便があるとして、自分の役所からより近い南の方向に新しい門を設けさせた。
門の南には高祖の父である太上皇の霊廟がある。
申屠嘉これを聞いて、
「小僧、焦りおったな」
と頷いた。
ただちに上書を準備して、
錯擅穿宗廟垣為門、奏請誅錯。
錯のほしいままに宗廟の垣を穿ちて門を為すとして、錯を誅せんことを奏請す。
鼂錯が勝手に宗廟の垣に穴をあけて門を作ったことを理由として、錯を誅殺せんことを奏上することにしたのである。
鼂錯の門客の一人に申屠嘉の幕僚と親しい者があって、この情報を察知し、鼂錯に告げた。
錯恐夜入宮、上謁自帰景帝。
錯恐れて夜宮に入り、上謁して自ら景帝に帰す。
鼂錯は恐れ、その夜のうちに宮中に入り、景帝に拝謁して、自らを帝に委ねた。
快楽の床より起こされて鼂錯に哀願された帝は、
「丞相の言うことはもっともなところもあるが、今おまえを殺すわけにもいかんなあ」
と苦々しげに言った。地方権力と争う景帝にとっては、その参謀格である鼂錯には利用価値があったのである。
至朝、丞相奏請誅内史錯。
朝に至り、丞相、内史錯を誅せんことを奏請す。
夜明けとともに朝議がはじまり、丞相・申屠嘉は「お畏れながら」と内史・鼂錯を誅殺することを奏上した。
「待て」
景帝はおっしゃった、
錯所穿非真廟垣乃外南垣、故他官居其中。且又我使為之、錯無罪。
錯の穿つところは真廟の垣にあらず、その外の南垣にして、もと他官もその中に居る。かつまた我これを為さしむれば、錯に罪無し。
「鼂錯が穴をあけたのは、霊廟の内側の垣根ではないはずじゃ。その外側の南の垣根で、だから以前から一部の官庁がその内側に建っていた場所である。それに、門の設置はわしがやつに命じてさせたので、錯にこの問題で罪は無い」
申屠嘉は何か言おうとしたが、もう帝は座を立っていた。
罷朝。
朝を罷む。
「朝議終わーーりーーーーー」
と宦官長が呼ばわり、帝は丞相を一瞥すると、後宮に入って行ったのである。
取り残された申屠嘉は、今はその主のいない玉座の方を見つめたまま、背後の長史(首席秘書官)に言うに、
吾悔不先斬錯、乃先請之、為錯所売。
吾、悔ゆるは、まず錯を斬らずして、先にこれを請い、ために錯の売るところとなりしことなり。
「残念なことに、先に鼂錯を斬っておいてから報告するのでなく、先に帝に奏請してから手を下そうとした・・・そのため、やつに逆に嵌められてしもうたな」
そして、
至舎因嘔血而死。
舎に至りて、因りて血を嘔きて死す。
宿舎に帰るや、そのせいで血を吐いて死んでしまった。
わーい、むかしの人はかくのごとくすさまじい闘いの日々を送っていたのだなあ。
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「史記」巻九十六「張丞相等列伝」より。相変らず「史記」のぶつぶつと短い文章はドラマを観るようで読みごたえがありますが、何に基づいて書いているのか、いつも心配になります。なお、この巻は建国の後の守成の時代の丞相たちの列伝で、これがまた乱世の英雄たちより勉強になるんです。人間的には。
なお、鼂錯はこの後も景帝の庇護のもと帝権の拡張のために次々と手を打っていったのですが、これに反発した呉楚七国の乱が起こると、叛乱した王たちを慰撫するために処分されてしまいます。厳しいなあ。