平成30年3月1日(木)  目次へ  前回に戻る

ぶた天使(略称「ぶた天」)がしばらく留守にしている間にぶた教会は荒廃していた。ほんとに少し放っておいただけで大問題になっているものである。

四日も出勤したのでもうそれだけでも限界超えているのに、明日はカタストロフィ的に破裂することが職場で起こるのである。少し放っておいただけなのに。少し放っておいただけで何故こんなにまずい状態になってしまったのか。疑問である。

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おおむかしのことです。

老耼死、秦失弔之。

老耼(ろうたん)死し、秦失これを弔う。

老耼が亡くなったので、秦失というひとが弔問に出かけた。

老耼は「老子」の著者候補の一人とされる賢者です。(こちらも参照。あのころが懐かしいなあ。)

秦失は

三号而出。

三号して出づ。

三回声を上げて叫ぶと、(老耼の家から)出てしまった。

秦失には弟子がいました。この弟子が問うて曰く、

非夫子之友邪。

夫子の友にあらずや。

「老耼さまは先生のご友人でいらっしゃいましたではありませんか」

然。

然り。

「そうじゃ」

然則弔焉若此可乎。

しからばすなわち弔うこと、かくのごとくして可ならんか。

「そうだとしますと、弔問に行って、たった三回声を上げるだけでよろしいものでしょうか」

もう少し情を尽くすべきなのではないか、と弟子が言ったのです。

秦失答えて曰く、

然。始也吾以爲其人也。而今非也。

然り。始めや吾以てその人なりと為せり。而して今非なり。

「そうなんじゃ。わしは以前は老耼は吾が友としてふさわしい人だと思っていたんじゃ。しかし、今はそうは思えなくなったんじゃ」

「なんと」

向吾入而弔焉、有老者哭之、如哭其子、少者哭之、如哭其母。彼其所以会之、必有不蘄言而言、不蘄哭而哭者。是遁天倍情、忘其所受。

さきに吾の入りて弔うに、老者はこれを哭することその子を哭するが如く、少者はこれを哭することその母を哭するが如くする有り。かれそのこれを会する所以は、必ず言うを蘄(もと)めずして言い、哭するを蘄めずして哭する者有るなり。これ、天を遁(のが)れ情に倍(そむ)き、その受くるところを忘るるなり。

「さきほどわしが老耼の家に入って弔問したとき、まわりを見回してみると、老いた者たちが声を上げて泣いているのはまるで自分の子どもを弔っているようであり、幼い者たちが声を上げて泣いているのはまるで自分の母親を弔っているかのようであった。(それぐらい感情が籠っていた。)老耼がこのようにひとびとに理解されている理由を考えてみると、おそらく(老耼を称賛するよう)コトバを求めたわけではないが、おのずと(称賛する)コトバが出るようにしむけたのであり、声を上げて泣くことを求めたわけではないが、おのずと声をあげて泣くようにしむけた、といえるであろう。

これは、天の自然を逸脱し、ひとの心にそむいた行為であり、ひとが本来与えられた本質を忘れた行いである」

「なんと」

さっき葬儀に入るときまでは友だちだったらしいんですが、葬儀場で友だちでは無くなったというのだ。

「そんな簡単に友だちでなくなるものなんですか」

古者謂之遁天之刑。適来夫子時也、適去夫子順也。安時而処順、哀楽不能入也。古者謂是帝之懸解。

いにしえはこれを「遁天の刑」と謂えり。たまたま来たるは夫子の時なり、たまたま去るは夫子の順なり。時に安んじて順に処し、哀楽入る能わず。いにしえは謂う、これ帝の懸の解なり、と。

「こういう老耼の行為は、むかしは「天(の与えた本来の姿)を逃れる罪」と言ったものである(。友だちではいられませんよ)。ふとこの世にやってきたのはあの人の都合であり、たまたまこの世から去っていくのもあのひとの都合ではないか。時の過ぎるのに任せて素直に従っているなら、「悲しい」も「楽しい」も入り込む隙は無い。(こうやってこの世から去っていくのを)むかしは「主宰者によって、(天地の間に)引っ掛けれて吊るされた者(われわれ)が解放される」と言ったものである。」

「なるほど」

指窮於為薪、火伝也、不知其尽也。

薪たるの窮まるを指さすも、火は伝わりてその尽くるを知らざるなり。

「(火が燃えているとき)薪木を指さして注目すると、薪木は燃え尽きて消えそうになっていても、火全体は既に燃え広がって、燃え尽きそうにもない、ということだ」

難しい言い方をしていますが、薪木(=身体)は滅びるように見えても、炎(精神)は他者に引き継がれて残っていく、ということらしいです。

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「荘子」養生主篇より。いよいよ明日は帝の懸解が行われて、肝冷斎一族は解放されるのだ・・・カモ知れません。そうなったらいいのになー。

 

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