山中に隠棲してシカやトナカイを友として暮らすのはよいことである。世俗社会に何をしにくるのか。
わーい、土曜日楽しいなー。・・・あと一日でまた休みが終わるわけですが。
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土曜日の穏やかな心で読みます。
無欲一切足、 欲無ければ一切足り、
有求万事窮。 求むる有れば万事窮まる。
欲望が無ければ何でも満足できるんですが、
あれが欲しいと思い始めると何もかも行き詰まってしまう。
すばらしい言葉です。
わたしは今日はまた揚げ物食べてしまいましたが、
淡菜可療飢、 淡菜も飢えを療(いや)すべく、
衲衣聊纏躬。 衲衣(のうえ)もいささか躬に纏う。
味の無い菜っ葉でも、なんとか腹の足しにはなりますし、
ぼろ服でも、なんとか身につけておくことができます。
服の中に新聞紙入れるとかなり暖かい。
まじめに修行していると、世俗の欲望はだんだん無くなってくるよ。
独往伴麋鹿、 独往して麋鹿(びろく)を伴い、
高歌和村童。 高歌して村童に和す。
(他者と交わらず)ひとりで行き来しているが、トナカイやらシカはおいらについてくるんです。
(時に人里に行くが大人との付き合いはせず)村のガキどもと一緒にでかい声で歌をうたっているばかり。
このすばらしい生活を邪魔して、「世俗に戻ってやることがあるのではないか」と言いに来るやつがいるのだが、
洗耳巌下水、 耳を洗わん、巌下の水に、
可意嶺上松。 意に可なるは、嶺上の松なり。
超古代の賢者・許由は、堯帝から天下を譲りたいと言われて、「うひゃあ、ひどい話を聴いた。耳が汚れましたよ」と称して流れに耳を洗った(「列子」)。また、唐代の寒山子は
微風吹幽松、 微風、幽松を吹き、
近聴声愈好。 近く聴けば声いよいよ好(よ)し。
そよ風が隠れた松の枝を吹いている。
そばで聴いていると、その音はどんどんいい感じになってくるぞ。
と歌った。これらを踏まえまして、
(世俗の社会でいい目にあわせてやろう、などというコトバを聴いたら)耳を渓流の水で洗わないといかんぞ。
(その耳で聴くと)嶺の上の松を吹く風の音は、ここちよいなあ。
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大愚良寛さまの作品です。内容もすばらしいが、詩としても全部対句になってて安定感がありますね。
また平日になると「シゴトに来い」と言われるかも知れませんが、なんとか今度こそ断ろうと思いまーす。まあいずれにしろまだ明後日のことだから、今日は楽しくしていよう、と。