ついに「無能三昧」(無能による精神の安定)を会得したようである。
やっと週末、金曜日です。ようし、今日は週末にふさわしいお話をしましょう。
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福州の古霊神賛禅師は、名僧・百丈懐海にも教えを受けたひとですが、ある日、経典を読んでいたとき、
有蠅子鑚窗。
蠅子の窗を鑚する有り。
ハエがまどの障子紙に何度もぶつかって、穴を明けたのを見た。
これを見まして、
世界如許広闊、鑚他故紙驢年去。
世界かくの如く広闊なるに、他(か)の故紙を鑚りて驢年去らんか。
「世界というのはこのように広いものであるのに、どうしておれはこの(経典の書かれた)古い紙を穴のあくほど見つめて、ロバのように意味のない人生を過ごしているのだ?」
と気づいたそうなんです。
そして、
空門不肯出、 空門あえて出でず、
投窗也大痴。 窗に投ずるもまた大いに痴。
空を宗とする仏教寺院から出てしまうことをせず、
窓の紙に何度もぶつかるのも、やっぱりたいへんなばかものである。
百年鑚故紙、 百年故紙を鑚りて、
何日出頭時。 何れの日にか出頭時あらん。
百年間もこんな古い紙に穴を明けるようなことをしていて、
いつになったら向こう側に頭を出せる日が来るだろうか。(来ませんよ。)
と偈を作って、
「やってられませんよ、うっしっしー」
と寺を飛び出し、諸方を行脚して百丈和尚のところに来たんだそうです。
・・・それから悟って、もとの寺に戻って、さらにまた何十年も経ちました。
ある日突然、
告衆云、汝等諸人還識無声三昧么。
衆に告げて云う、「なんじら諸人、また「無声三昧」を識るや」と。
弟子たちに告げて言った。
「おまえたちは(いろいろなことを知っているらしいが)、「沈黙せる精神の安定」というものは知っているのか?」
弟子たちは答えて言う、
不識。
識らず。
「知りませんでちゅよー」
「教えてくだちゃーい」
そこで、禅師は言った、
汝等静聴、莫別思量。
なんじら静聴し、別思量するなかれ。
「それでは、おまえたちは耳を澄まして、余計なことを考えるな」
「わーい、ありがたい三昧を教えてもらえるよー」
と弟子たちはじっと耳を澄ました。
衆皆側聆、師已示寂。
衆みな側聆するに、師すでに示寂(じじゃく)せり。
「示寂」は僧侶が亡くなったことをいいます。
みんなが耳を澄ましてコトバを待っているうちに、なんと、禅師はもう死んでいたのであった。
まさにこれが「無声三昧」(沈黙せる精神の安定)でありまちたー! わーい!
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「聯灯会要」巻七より。週末はこんなことについても、思いをめぐらせていただくとよろしいのではないでしょうか。ぶー。