無益な殺生を戒めるぶた僧侶さま。
やっと一週間終わりました。ついでに年度も終わった。送別会もありました。明日から新しい道に踏み出すひともいるんだなあ。
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唐の時代のこと、福建・福州生まれの大安と名乗る若い僧侶が百丈懐海禅師のところにやってきまして、おずおずと質問いたしました。
学人欲求識仏、何者即是。
学人、仏を識らんと欲求す、何者か即ち是なる。
「えーと、わたくしは、ホトケとは何かを知りたいんですけどお、どういうものなんでしょうか」
禅師さまは、若者の率直な質問がお気に入られたのでしょうか、にやり、と笑いまして、お答えになりました。
大似騎牛覓牛。
大いに似たり、牛に騎りて牛を覓(もと)むるに。
「ほんとうに、ウシに乗ったやつがウシはどこじゃと探しているのとそっくりじゃなあ」
「え? え? え? ・・・うーん」
若者はしばらく何か考えているようでしたが、また質問いたしました。
識後如何。
識りて後は如何。
「あの、ホトケとは何か、わかってしまったら後はどうすればいいと思いますか?」
禅師答えて曰く、
如人騎牛至家。
人の牛に騎りて家に至るが如し。
「ウシに乗った人はそのまま家に帰ればよかろう。そういうものじゃ」
「あ・・・なるほど」
若者は妙に納得したようで、さらに質問した。
未審始終如何保任。
未だ審らかならず、始終如何ぞ保任せん。
「わからないことがまだあるんですが、家に帰りつくまでの間、どんなふうなことに気をつければいいんでしょうか」
禅師曰く、
如牧牛人執仗視之、不令犯人苗稼。
牧牛人の杖を執りてこれを視るが如く、人の苗稼を犯さざらしめよ。
「牛飼いの童子は、杖を持ってウシを見張って、他人さまの畑の苗を食い散らかさないようにさせているぞ」
「うーん」
若者は何やら唸って、
「しばらくここに置いていただけませんでしょうか」
と願い出た。
「いたければいるがよろしい」
若者はしばらくして悟りを開き、禅師のもとを辞して、湖南で自ら耕作しながら暮らし、やがて福建に帰って、怡安院に住持したが、座禅を好んでほかの事をしたがらなかったので、「大安」をもじって「懶安」(らいあん。「さぼりやの安和尚」)と呼ばれたそうである。九十歳まで生きまして、唐末の中和三年(883)に示寂(僧侶が亡くなること)して、やっとウシの背中に乗って「家」に帰りついたわけです。円智禅師と諡り名さる。
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「景徳伝燈録」巻九より。おいらも明日ぐらいに悟りを開くカモよ。