なんのために叱られているのかわからず自分は不幸なのかと思うことも多いが、それは平日に着ぐるみを着ているときのことだ。
今日も体重増だが、週末なので少しだけ元気になる。ぶた肝冷斎の着ぐるみを脱いでみまちゅよ。
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揚州・無錫の華氏にまだ十五にもならない女の子がいたのだが、この娘がその父に言うに、、
毎夜更余、常見矮人長尺許、三三両両、繞牀而行。
毎夜更余、常に矮人の長尺ばかりなるが、三三両両して牀を繞りて行くを見る。
「毎晩深夜になると、いつも背の高さ30センチぐらいのこびとさんが、三人と二人とか連れだってあたしのベッドの周りをぐるぐる歩き回るのだよー」
と。
「ほんとうかね」
父親はある晩、
持剣宿於女牀。
剣を持ちて女牀に宿す。
剣を手にして、娘のベッドに寝た。
深夜になると、娘が
来矣。
来たれり。
「来たのだよ!」
と叫んだが、父親には見えない。
「ここだよ!」
「ここか!」
父親は娘の指さすところに剣を振り下ろした。
ぼかん。
何か手ごたえがあった。燭台をかざして見るに、
乃是一血塊也、大如斗。
すなわちこれ一血塊なり、大いさ斗の如し。
そこには血の塊が落ちていた。その量、一斗枡のごとし、というのだから18リットルぐらいあったのである。
「やっつけたのだよ」
「やっつけた・・・のかな?」
―――これでめでたしめでたし、ではありませんでした。
明夕、見矮人無数、自地湧出索命。口称、何故無状殺我阿爺、速還命来。
明夕、矮人無数に地より湧出して索命するを見る。口に称するに「何故ぞ無状に我が阿爺を殺すや、速やかに命を還し来たれ」と。
翌晩、こびとさんが数えきれないぐらい地面から湧き出てきて、口々に
「どうちて何の理由も無くおいらたちのおやじさまを殺ちたんでちゅか! おやじさまの命を返してくだちゃいよ! はやく、はやく!」
と殺人を責め立てるのであった。
家族の者たちが怯えていると、
「うっしっしー」
其怪自一尺長至二三尺、高斉屋梁、奇形駭状、不可称論。
その怪、一尺より長さ二三尺、高さ屋梁に斉しきに至り、奇形駭状、称論すべからず。
妖怪たちは、30センチぐらいから60センチ、1メートルに大きくなり、さらには屋根や横柱の届くような高さになり、その形も無茶苦茶でびっくりするような、コトバでは表現しきれない格好になった。
「わーい、わーい、はやく!はやく!返せ!返せ!」
と暴れまくったのである。
そのうち、空が明るんできた。
朝になったら治まるかと思ったのだが、
凌晨、舁出棺木、引僧道儀従千余人、或走或馳、或歌或哭、鼓鈸之声沸天。
凌晨、棺木を舁き出だし、僧道の儀従千余人を引き、あるいは走りあるいは馳せ、あるいは歌いあるいは哭し、鼓鈸の声天に沸けり。
朝には、どこからか小さい棺桶を担ぎ出してきて、坊主やら道士やらの格好をしたやつが千人以上もそのあとにつき随い、小走りに走る者、駆けまわる者、歌うやつ、泣くやつがいて、太鼓やシンバルの音が空に沸き上がった。
日が昇ったころ、華氏の者が一人脱出して、役所に駆け込み、助けを乞うた。
巡視隊の隊長が、すぐに軍士百余人を招集して、救出に向かったが、
其怪戎装而出、亦持戈戟格闘、我兵不戦而去。
その怪、戎装して出で、また戈・戟を持して格闘し、我が兵戦わずして去れり。
「わーい、兵隊さんだ、兵隊さんだ、お出迎えちてやりまーちゅ」
妖怪どもは鎧をつけて華氏の家から出てきて、ホコやヤリを手にして迎撃してきた。その数は無数であり、大きさや形が変化するので、ニンゲンの兵士たちは尻込みし、「これはたまらん」と戦わずして逃げ出してしまった。
「これはたいへんなことです」
と隊長から報告を受けた県知事は
初不信、自往験之。
初め信じず、自ら往きてこれを験す。
報告を聞いても信用せず、「わしがこの目で見てやる」と自ら実見しに行った。
しかし、華家に近づくと、
爲飛砂所中、未及門、遽返。
飛砂の中るところと為り、いまだ門に及ばずして遽かに返る。
激しい風が吹いて、飛んで来た砂に打たれて、門に到着できずに、匆匆に逃げ帰ってきたのであった。
「わーい、わーい」
官憲の力も及ばなかったのだ。
華氏意所居不祥、即日扃之徙去、遂免。
華氏、居るところ不祥なりと意い、即日これに扃(けい)して徙り去り、遂に免れたり。
華氏の一族は、この家が不吉であることに気づき、その日のうちに脱出すると、外から鍵をかけて着のみ着のまま転居して、おかげでそれ以上の不幸は免れたのだった。
嘉靖辛亥年(1551)のことだそうです。
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明・銭希言「獪園」第十五より。元気なこびとさんたちだなー。おいらも毎日元気でいきたいけどね。