やっぱり今日もウツ。誰かグチぐらい聞けよ、と言いたくもなってくるが、言う相手も無いのだ。
今日の出勤終わってよかった。ほっとして涙にじむ。しかし、もう二日後には平日の恐怖に打ちひしがれることになる。火曜日はもっとキツイのが・・・。
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唐詩云。
唐詩に云う。
唐の詩にこんなのがあります。
北闕休上書、 北闕に上書を休(や)め、
南山帰敝廬。 南山の敝廬に帰らん。
宮中の北門から入って上奏文を書くお役目をいただいていたが、そのしごとを辞めて、
終南山にあるやぶれた庵に帰ろうと思う。
不才明主棄、 不才にして明主に棄てられ、
多病故人疎。 多病なれば故人疎なり。
無能なんで、すばらしい名君のもとにいてもシゴトはもらえないし、
病気がちなので、どんどん友だちも離れていく。
白髪催年老、 白髪は年の老ゆるをうながし、
青陽逼歳除。 青陽は歳除に逼りぬ。
白髪がふえて老齢をより一層進行させ、
青春の日々は過ぎて、もう一年の終わりにまで近づいてきたのだ。
永懐愁不寐、 永く懐いて愁いに寐ねられず、
松月夜窓虚。 松月は夜窓に虚し。
いつまでもそんなことばかり考え続けて、憂いのせいで眠れなくなり、
宵には窓から見えていた松にかかっていた月も、もう西に移って、見えなくなってしまった。
実際にはこれは孟浩然の「歳暮帰南山詩」(歳暮れて南山に帰るの詩)です。この詩の「不才にして明主に棄てられ」の句を見た玄宗皇帝が
「わしは孟浩然を棄てた覚えはないぞ」
と激怒され、本当に孟浩然を追放してしまった、というウワサの残っているいわくつきの詩である。
さて、わたしの部屋にはこの詩が額に入れられて、飾られている。
此詩中井履軒所書、壁上展掲。
この詩、中井履軒の書するところ、壁上に展掲せり。
これは、大阪・懐徳堂の中井履軒先生が書したものだということで、壁の上の方に広げて掲げられているのである。
わたしはこの詩を、
日夕風誦、病中感興殊深。
日夕に風誦して、病中の感興ことに深かりき。
朝に、夕べに声に出して読み上げて、自分の病で寝ている身であるから、詩のこころがほんとうに身に染みて思われるのである。
そこで、
以多病故人疎、為韻。
「多病故人疎」を以て、韻と為す。
「多病にして故人疎なり」(病気がちなんでどんどん友だちもいなくなってしまう)の多・病・故・人・疎をそれぞれ韻字にして、五首の詩を作りました。
題して「間居雑感」(なにもせずに居て、思ったことなど)。
―――ということは五首あるわけですが、ここでは「病」字で韻を踏んだ(第一・第二・第四句の末尾の文字の「母音」を揃えること)第二首を紹介いたします。
白髪青雲心不競、 白髪、青雲に心競わず、
窮途敢謂知天命。 窮途あえて謂わん、天命を知れりと。
もう白髪になってしまった。青雲の志を抱いたころのキモチにチャレンジしようなんてもうムリである。
人生に行き詰まってきていたので、そこで、あえて言ってみる。孔子が「五十にして天命を知る」と言ったように、わしもそろそろ天命がわかってくる、かも知れない、と。
「あえて謂う」なんで、天命を知ってしまえている、わけではないんです。
誰憐半白老書生、 誰か憐れまん、半白の老書生、
一事無成徒臥病。 一事の成すこと無くいたずらに病いに臥するを。
誰が同情してくれようか。髪の毛の半分は白くなってしまった老書生のわしが、
結局人生になにごとも為すことなく、あわれむなしく病いに寝ついてしまっていることに。
いや、ほんとそのとおり。みんなわしのことバカにするばかりで、同情なんてするはずない。おれは居酒屋で、一人酒を酌みながら
「みんなバカにしやがって・・・おれだって、おれだってなあ・・・」
と、酒に向かってグチを言うしかないんです。(なお、今日は海外のお客様を迎える席の端っこで、ほとんど会話もせずにいい飯食って、後半は眠っていた。かなりいい店のはず。何をやっても一人前にできず、情けない、の一言である)
なんかこの詩を書いたひとと意気投合してきたので、もう一首「人」韻の第四首も引いてみましょう。
本是清時一逸民、 もとこれ清時の一逸民、
青山祇合養残身。 青山にただまさに残身を養うべし。
ほんらいわしは清らかな太平の時代の孤独な世捨て人だから、
みどりの山に入って、年老いた身で飢えない程度に食っていくべきなのだ。
まったくです。同感。
回頭旧友多冠蓋、 回頭するに旧友おおく冠蓋、
林下相逢有幾人。 林下に相逢うは幾人か有らん。
振り返ってみるに、むかしの友人には、冠をつけたり傘を立てた立派な車に乗っているような、エライさんになっているやつもたくさんいるなあ。
林の中で、同じ隠者同士として会うようなやつは、どれぐらいいるだろうか。
うーん、ここは少し違うぞ。おいらには、エライさんになっているやつも林の中で会うやつも友だちにはいない。そんなことよりもっと根本的に「友だちがいない」んです。おいらの方が一段と追い込まれているのである。
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陸羯南「閑居雑感」詩(「羯南文録」所収)。明治三十八年(1895)、病を得て鎌倉に転地したころの作品なんだそうです(高松亨明「陸羯南詩通釈」津軽書房昭和56による)。陸羯南は安政四年(1857)の生まれ、ということですから、数えだと四十九歳になります。そろそろ「天命を知る」年齢ではあります。法律学校以来の友人・国分青p、ライバルに当たる民友社に徳富蘇峰、昭和まで生きて厖大な作品を残した二大ジャーナリスト漢詩人と比しても、羯南の技量は優るとも劣らないと言いつべし。なお、羯南はこの病から再び起つことかなわず、翌々明治四十年に死去した。
・・・おっと、ぶたであることを忘れるところでした。でぶー。