ぶた電車に乗って遠くへ行こう。(カメラ故障のため、以前の絵を使い回しているのである。)
明日の出勤ツラい。明日の夕方には大仕事があるのです。おいらの割り当ては大したことないが。そのことへの不安から、昨日は更新を止めていなくなっていたんです。
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南京の紫金山は、いにしえは鐘山、蒋山とも呼ばれておりましたが、この山の麓に、
我太祖高皇帝陵寝在焉。
我が太祖・高皇帝の陵寝在り。
我が明朝の太祖・洪武帝(在位1368〜98)の御陵墓がございます。
さて、この御陵墓を作りましたとき、
掘土数尺、見一石亀。頭頸長数寸、口目足尾、儼然皆真。今蔵太廟。
土を掘ること数尺にして、一石亀見(あら)わる。頭頸の長さ数寸、口目足尾、儼然としてみな真なり。今、太廟に蔵す。
一メートルほど土を掘ったところから、石のカメが一体現れた。くびの長さは十数センチ、口も目も足も尾もほんものそっくりで、現在は御陵墓の正殿に所蔵されております。
この石亀の不思議なることは、
久晴而腹下有水、則雨。雨而腹下燥、則晴。
久しく晴るるに腹下に水有れば、すなわち雨ふる。雨にして腹下燥(かわ)けば、すなわち晴る。
ずっと雨が降らないでいるときに、このカメの腹部が勝手に湿っていることがあって、そうするとすぐに雨が降り出す。逆に長雨のときに腹部が乾燥していると、晴れになる。
まことに不思議なことである。
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と、明・朗瑛「七修類稿」巻九に書いてある。本に書いてあるのだからほんとうのことでしょう。
これを実際に調べに行ったひとがいたんです。
余於萬暦庚子秋謁陵、請之守者、得覩。
余、萬暦庚子の秋に謁陵し、これを守者に請いて、覩るを得たり。
わしは萬歴の庚子の年(西暦1600年)の秋に、御陵を拝謁させていただく機会があった。この時、御陵の番士に頼み込んで、見せてもらったのである。
だいぶん袖の下もお渡し申し上げたのかも知れません。
亀は掘り出されてから200年経っているわけですが、
膚理細沢、数墨玉然。
膚理細にして沢、数墨玉然たり。
表面はたいへん細かい筋目があり、しっとりとしている。数点、墨のような黒いところもあるが、玉製品そのものと見えた。
熱心に見入っていると、御陵の係の者が教えてくれたことには、
土中原有九玉亀、掘時飛逸其八、衆人急掩之、僅得一亀存焉。
土中にはもと九玉亀有るも、掘時にその八は飛び逸し、衆人急にこれを掩いて、わずかに一亀の存するを得たり。
「土の中にはもともと九つの玉亀が埋まっていたらしいのですが、掘り出した時、あっという間にそのうちに八つまでは空中に飛びあがり、いずれともなく飛び去ってしまったのです。みんなで大急ぎで押さえ込んで、この一つだけが残ったのだといいます・・・」
ああ、それでは残りの八つの亀はどこに行ったのであろうか。あるいはこの亀には天子の気があり、その行方が天下のことを左右するような秘密をはらむために、はじめから一つだけだったとされ、他の亀があったことは封印されたのかも知れない。
が、違うかも知れないので、
記此以俟考証。
ここに記して以て考証を俟つ。
そのことをここに記録しておいて、後世の学者の研究を待つことにする。
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その後八つの亀の行方についてはだれも調べてないようです。これは「続耳譚」巻三より。この調査に行ったのが、共著者の劉忭、沈遴奇、沈儆垣のうちの誰かは判然としませんが、やっぱり書物の上で学ぶだけでなく、現地で実地調査しないとわからないことが多いものだ、ということがわかります。昨日はHP更新せずにぶた電車に乗って実地調査に行ってました。実地調査はタメになるでぶー。