長生きすると珍しいものもたくさん食えることもある。
今日は敬老の日でぶー。長生き?したひとのお話でもいたしまぶー。
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後漢・霊帝の中平四年(187)に、チャイナの混乱に乗じて越南の地に自立して王を名乗った士燮は、このとき齢50歳であったが、魏の光初七年、呉の黄武五年、蜀漢の建興四年、すなわち西暦紀元226年に薨じた。当時としては非常に高齢な九十歳であった。
初、王嘗病、死三日、僊人董奉与薬一丸、以水含服、捧其頭揺捎之。
初め、王すでに病み、死すること三日、僊人・董奉、薬一丸を与え、水を以て含服し、その頭を捧げてこれを揺捎(ようしょう)せしむ。
まず、王は病にかかられて亡くなられた。それから三日したとき、仙術を学んだ董奉という人物が現れて、一粒の丸薬を取り出し、これを(死んでいる)王の口に入れ、さらに水を注ぎこんで、王の頭をもちあげ、揺さぶってそれを呑み込ませた。
董奉というひとはチャイナの福州出身の仙人であったそうです。
すると、
少頃即開目動手、顔色漸平。
少頃すなわち目を開き手を動かし、顔色ようやくに平なり。
しばらくしたら、目をお開けになった。そして手もお動きになった。顔色はだんだんと血色を帯びてきた。
「おお」
と、三人の王弟と近臣らの驚くのを後目に、董奉は「これはどうも・・・」と首をひねりながらいずこへともなく去っていった・・・。
復明日、旋能起坐、四日復能語、遂復常。
また明日、旋ちによく起坐し、四日にしてまたよく語り、ついに常に復す。
さらに次の日には、ただちに起き上がって座れるまでになり、四日目にはコトバを口にするようになり、とうとう普通に生きている状態になった。
「おめでとうございます」
とみな王に祝いを申し上げたのだが――――。
しかし、王はすでに王ではなかった。確かにコトバを口にするのだが、それは意味を成さず、手足を動かすのだが、立ち上がったり歩いたりといった行為はできない。すべてがばらばらなのである。
そうこうしている間に、呉の呂岱が士王の薨去の報を得て侵攻してきた。王弟たちと近臣はついにある決断をし、正式に王の死を公表するとともに、王子の士徽を立王させて、呂岱を迎え撃つこととした・・・・。
結局、士氏は内紛もあって敗れ、士王朝は一代で亡びるのでございますが、それよrさらに百六十年の後、東晋の終わり(420年)に近いころ、
林邑人入寇、掘発王塚。
林邑人入寇し、王の塚を掘発す。
南ベトナムから異民族が侵入し、士王の墓を暴いたことがあった。
見其体面如生。
その体面を見るに生ける如し。
墓の中の王は、その体も顔つきも生きているかのようであった。
生きているかのようであっただけでなく、遺体は侵入者たちに対して胸元に組んでいた手を挙げ、まぶたを開き、澱んだ目で何かを訴えるようであった。
「うわあ」
墓暴きたちは
大懼、乃復封瘞。
大いに懼れ、すなわちまた封じて瘞(うず)む。
非常な恐怖にかられて、墓の入り口をまた閉じ直すと、もう一度土で埋めてしまった。
「王はまだ生きておられるのだ」
土人以爲神、立廟事之、号士王僊。蓋其英気不朽、所以能為神也。
土人以て神と為し、廟を立ててこれに事(つか)え、「士王僊」と号す。けだし英気朽ちず、よく神をなす所以なり。
地域の人民どもは神として崇め、神社を立ててお祀りして、「士仙王さま」と称した。英雄の気力はなかなかほろびることがないので、神威を持ったのであろう。
いまも王の墓は、北ベトナムのどこかにあるそうなのでございます。
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「大越史記」巻三より。長生きしているんです。なお、このひとはおそらくこのひとであろうと思われます。→王士燮