おいらたちには、お酒の力を借りていくしかないのかも。苦悩も不安も無い理想の世界には・・・。
あと二日もすればまた平日の恐怖が迫りくるわけだが、今日のところは夢でも見ているか・・・。
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唐のころだというひとあれば、明の時代のことだというひともあるのですが・・・、会稽・華亭で半農半漁の生活をしていた王可交というひとがいた。
彼が、
一日棹舟入江、忽見中流彩舫、載七道士、遠聞有呼可交名者。
一日、棹舟して江に入るに、忽ち中流に彩舫の七道士を載するを見、遠く可交の名を呼ぶもの有るを聞く。
ある日、舟に棹さして長江に出たとき、流れの真ん中あたりに、見慣れない色塗りの舟がいて、そこに七人の道士が乗っているのが見えた。その舟からは、はるかに「可交よ、可交よ」と彼に呼びかける声が聞こえたのである。
「なんでちゅかね?」
と首をかしげているうちに、
舟相逼、呼可交登舟。
舟あい逼り、可交に「舟に登れ」と呼べり。
その舟はどんどん近づいてきて、舟からは可交に向かって、「こちらに乗り移らんかーい」と呼びかけがあった。
とりあえず舟を停めて、
「いや、おいらは乗り移りませんよ」
と応えると、道士のうちの一人が言うに、
好骨相、合為仙。
好骨相なり、まさに仙たるべし。
「いい面構えではないか。こいつは鍛えればいい仙人になるぞ」
「はあ」
もう一人の道士が言うに、
「まあまあ、焦る必要はあるまい」
そしてこの道士は、
与之二栗、食之、甘如飴。
これに二栗を与うるに、これを食らえば、甘きこと飴の如し。
可交に栗を二粒くれた。「食え」というので食ってみると、水あめのように甘かった。
やがて、
「今日のところは、わしを送ってくれんかな」
と言って一人乗り移ってきた。
「岸まで連れてけばいいのでちゅかな?」
「そうじゃ、そうじゃ」
と言われたので岸辺に戻ろうとした・・・が、なかなかたどりつけません。
気が付いたときには、舟は、
乃在天台山瀑布寺前。
すなわち天台山の瀑布寺の前に在り。
なんと、何百キロも上流の、天台山の滝の下の寺の前にいた。
振り返ると、乗り移ってきていた道士は見当たらず、寺の僧が出てきて、
「いったいどこから来たのだ」
と問い詰めるので、
三月三日、今早離家。
三月三日、今早に家を離る。
「本日三月三日の朝、家から出てきたところなんでちゅが・・・」
といきさつを言ったところ、僧が答えるには、
九月九日。
九月九日なり。
「今日は九月九日じゃぞ」
ええー!
已半年余矣。
すでに半年余りなり。
あっという間に半年とプラス六日経っていたのだ。
・・・・舟を返して家に戻ってきた王可交でしたが、
後絶穀、住四明山不出。
後、穀を絶し、四明山に住みて出でず。
その後、穀物は食べなくなってしまい、会稽の四明山に入って、二度と出てこなかった。
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会稽の仙人・王可交の伝説は唐代から繰り返し記録されているそうなのですが、これは明の劉忭、沈遴奇、沈儆垣らの共著である「続耳譚」巻一より。今日は昼間暑くてふらふらし、まぼろしの中で自分の名前が呼ばれているような気がした・・・が、冷房の効いた電車に乗ったら正気に戻りました。誰も呼びかけてはくれてなかったみたいである。ぐすん。おいらも水あめ食べたいなー。ごはんも食べたいけど。