人生にはウイスキーとブルースだけしか要らないのに、要らないものを多く背負いこんで困っているやつがいるのでありモグ。おまえさんのことかもしれモグよ。
明日すごいマズいシゴトが。どうすんだよ。明後日も。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
賢者さまのお言葉。
何以長惆悵、 何を以てとこしなえに惆悵(ちゅうちょう)するや、
人生似朝菌。 人生は朝菌に似たるに。
「惆悵」は悲しみ嘆くこと。「朝菌」は「荘子」逍遥游篇に曰く、
朝菌不知晦朔。
朝菌は晦と朔を知らず。
として出るもの。「きのこ」説と「小さな虫」説があるのですが、いずれにせよ朝生まれて夕方には命を終える短命な生物とされます。「晦朔」は一般には陰暦の月末(月が無い)と月初(新月)をいいますが、ここでは「晦」は夜闇、「朔」は夜明けのこと。
「朝菌」というキノコ(又は虫)は、(朝生まれて夕方に命を終えるので)日が暮れたあとの夜中と、日が出る前のあかつきどきというものを知らない。
というものです。
冒頭の賢者さまのおことばの解釈に戻れば、
どうしていつもいつも、悲しみ悶えているのですか、
人生なんて朝菌のようにあっという間に過ぎて行くものなのに。
といっているんです。
那堪数十年、 なんぞ堪えんや、数十年にして、
新旧凋零尽。 新も旧も凋零し尽くすことを。
どうしても堪えることはできないだろう。数十年もするうちには、
むかしからの知り合いも最近の知り合いもみんな(露が落ちるように)ぽろぽろと消え果ててしまうのだ。
以此思自哀、 ここを以て思いて自ら哀しみ、
哀情不可忍。 哀しき情、忍ぶべからず。
このことを思えおのずとどんどん悲しくなり、
悲しみの心は、どうにもガマンできなくなってくるのだ。
うう。
奈何当奈何、 いかんせん、当(は)た、いかんせん、
脱体帰山隠。 脱体に山に帰りて隠れん。
「脱体」は唐代以降の俗語で「そのまままるっきり」という意味です。
どうしたいいのだろうか。ああ、どうしたらいいのだろうか・・・。(ぼ〜ん、と賢者さまはコドモに変化した)
そうだ! このまま、まるっと山の中に入って隠者になってしまえばいいのでちゅよ。
「わーい、わーい、コドモだから社会的責任負わずに隠者になりまーちゅ」
ホントですか。ではわたしもすぐ行きます!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「寒山詩」より。コドモ賢者さまの後について山中に入ろうとしているのだが、賢者さまの後ろ姿を見失ってしまい、山の登り口のところでうろうろしているのが現在のおいらの状態である。どこからでもいいから山に入ってしまえばいいはずなのだ、決断だけなのだ、と既にわかっておりますので、今日か明日ぐらいには山中に入ってしまうと思います。