余り有るように見せるとすごい勢いで寄って来るものたちもあるのである。足りないように見せかけるのがよいであろう。
やっと週末。ツラかった。来週はもっとツラくなるのかと思うともうムリである。もっとできそうなやつにやらせるようにしてください。
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西晋の終わりころのことです。皇帝の叔父に当たる梁王・司馬丹、趙王・司馬倫らは権勢並ぶものなく、たいへんな威勢であった。
時に中書令として実務を取り仕切り、両王の領地の行政責任者でもあった裴楷は、
歳請二国租銭数百万、以恤中表之貧者。
歳に二国の租銭数百万を請きて、以て中表の貧者に恤す。
当時の貴族は母方の実家で育つことが多かったので、母方の従兄弟を内兄弟、父方の従兄弟を表兄弟と称したことから、「中・表」というのは父方・母方の両系の親族全体をいいます。
毎年、両王の両国からの衆税額のうちから数百万銭を(手数料として)請求して、それを一族の中の貧乏人に補助していた。
豊かに暮らしている親族の中にはこれをいやがる者があって、
何以乞物行恵。
何ぞ乞物を以て恵を行うや。
「どうしてひとさまから財物を施していただいて、それを使って恵んでやるのですか。
それぐらい、あなたの給与の中からでも出来ましょうし、一族の中の豊かな者から集金してもよろしかろう」
と提言してきた。
すると裴はきょとんとした顔をして、
損有余、補不足、天之道也。
余り有るを損して足らざるに補うは、天の道なり。
「余裕のある方を減らして、足りないでいるところに加えるのが、お天道さまのやり方ではないのか」
と答えて、取り合わなかった。
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以上、「世説新語」徳行第一より。
まことに然らん。(ほんとにそうですなあ)
「老子」に曰く(七十七章)、
天之道、其猶張弓乎。高者抑之、下者挙之、有余者損之、不足者与之。天之道損有余而補不足。
天の道は、それなお弓を張るが如きか。高きものはこれを抑え、下がれるものはこれを挙げ、余り有るものはこれを損し、足らざるものはこれに与う。天の道は余り有る者に損して足らざるに補うなり。
大自然の法則は、弓に弦を張るときのようなものだ。弦が高くずれていれば低くさげ、下がりすぎていれば引き上げ、弦の力が強すぎるときには緩め、弦の力が弱すぎるときにはきつくしてやる。(太陽が昇れば降り、月は満ちれば欠け、春から夏になれば秋を経て冬になるではないか。)大自然の法則は、余裕のある方を減らして、足りないところに増やしてやる、ということなのである。
弓を張ったことがないのでよくわからんのですが、そうするのでしょう。
ところが、
人之道則不然、損不足以奉有余。孰能損有余以奉天下。唯有道者。
人の道はすなわち然らず、足らざるを損して以て余り有るに奉ずるなり。たれかよく余り有るを損して以て天下に奉ぜん。ただ道有る者のみ。
ニンゲンのやっていることは違っている。彼らは足りないところから取り上げて、余裕のある方に差し出すのである。ああ、どこかに余裕のあるところから取り上げて来て、天下に公平に差しだすものはいないのだろうか。世界の法則を体得しているひとだけが、そうすることができるだろう。
是以聖人為而不恃、功成而弗居也。若此其不欲見賢也。
ここを以て聖人は為して恃まず、功成りて居らざるなり。かくのごとくしてその賢を見(あらわ)すを欲せざるなり。
こういうわけですから、「聖なるひと」は、なにごとかを成し遂げるけどそのことに依存はしない。成功したところには長居はしない。こうして、自分が賢者であることがバレないようにするのでございます。
わしがみなさまから見るとオロカ者にしか見えない理由が、お分かりですかな。ひっひっひっひ。